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今城塚古代歴史館
河内王朝の存在は古墳(大王墓)からも確認できます。ただ伝承上は応神から武烈まで11代ですが大王墓は10基しかありません。墓が一つ足りません。やはり言われてきたように武烈は創作された天皇ということでしょう。
河内の隣の三島には太田茶臼山古墳、今城塚古墳という大規模古墳が2基あります。
大田茶臼山古墳が大型化したのは允恭天皇へ三島から后を嫁がせたから。
というのはこの古墳は允恭陵とみられる市の山古墳と同形であること。三島で突如大型古墳が出現したのは、後に継体天皇へ尾張から目子媛が嫁ぎ、断夫山古墳という愛知県最大規模の大型古墳が築かれたと同じ現象でしょう。
また今城塚古墳が真の継体陵とされますが、この古墳と大田茶臼山古墳の埴輪は同じ工房で製作されたことが判明しています。
古墳はその勢力の本貫に造られることとあわせてみれば被葬者二人は親族であったとみられます。
つまり河内王朝と三島の勢力は以前から関係を持っていたということになります。
日本書紀では武烈天皇に子がなかったために河内王朝は存亡の危機を迎えた。物部氏・大友氏が調べた結果、遠い越前に応神天皇の五世孫がいることが分かったとします。
これは潤色です。
少なくとも允恭天皇の時代から関係があったのですから、すぐ隣の地に五世孫がいたとしたらその存在を知らない訳はないのです。
そのために越前にいたとし空間・情報の隔絶性を作る必要がありました。
応神天皇の五世孫である可能性はかなり低いと言えます。
つまり母方の血筋も認めれば皇室は応神天皇まで繋がるが、男系では継体天皇までとなります。
本の方では人物画像鏡や記紀伝承の矛盾を指摘し、上の仮説を別の観点からもみています。