記紀において神武天皇は「カムヤマトイワレビコ」と呼ばれます。 イワレは奈良県の桜井市辺りの古称とされます。 下図は大和の大王墓の分布です。
大和大王墓の分布
考古学は記紀編纂の時代よりも現代の方が進んでいます。これらの大規模な古墳を 見て、記紀編纂者たちは柄鏡型の前方後円墳である桜井茶臼山、メスリ山古墳の方 が古いと考えたのではないか。
柄鏡 宮崎県立総合博物館蔵 「柄鏡とは柄のついた円形の銅鏡で、室町時代以降に多く作られました」
柄鏡型は周濠部を持ちません。周濠部を持つ三味線のバチのように前方部が開いて いく「バチ型前方後円墳」をより新しいデザインを取り入れたものと考えた。 その為に大和建国の地は磐余(イワレ)であると認識、つまり誤解した。 そう考えれば神武東征の物語が宇陀から盆地に入り、この南東部を主体に展開した 理由も納得出来ます。 大和建国の時代、弥生時代に倭国は文字を持っていません。 一部には既に文字があり、かなり自由に使えたという説もあります。事実、卑弥呼 は魏へ使者を出しています。 しかしこれは限定された場で使われたと見るべきでしょう。 古事記を編纂した太安万侶も漢字を使って日本語の「意」を表すか「音」を表すか に大変苦労をしたと言っています。 弥生時代に一部文字が使われたとしても、それは中国語でしょう。日本語を表記す ることは出来なかったはずです。 もし一部の研究者が言うようにかなり自由に使えたとするならば、なぜ日本から、 特に纏向から出土する卜骨に中国のもののように占いの内容が文字で書かれていな いのか。 おかしなことです。 国家の最重要案件であり、神に問う占いです。 この時に文字を使っていないという事は、それほど自由に文字を使うことは出来な かったという証しでしょう。 つまり神武東征伝承など文字が無ければとても残らない詳細な話しは伝わっていな かった。 記紀編纂時代に中国史書、墳墓など特に大王墓、各一族に伝わる大まかな伝承話し などを参考に構想を作り、古事記、日本書紀を表したということです。 後日詳しく検討しますが日高正晴氏が「古代日向の国」(NHKブックス刊)で示す ように、天孫降臨の地、つまり皇家の出自は「襲(そ)」という南九州の地にあっ たという根本的伝承があった。 そこを基底として記紀が生まれてきたようです。 崇神天皇の世では全国平定まで一気に進む強大な国となったと記し、バチ型の大王 墓が展開される三輪山周辺へと舞台を移しました。 渋谷向井山古墳築造の時代、大和は祭祀者から政治指導者への国へと変わり、中央 集権体制が固まり始めたことにより、次の飛躍の時を迎えたようです。 また日向を見れば柄鏡型前方後円墳があり、建国の祖の出自と磐余地域が記紀編纂 者の頭の中で見事に繋ったのでしょう。