尾張との決定的な対立と大和連合体制の崩壊

魏氏倭人伝にある狗奴国は尾張国及び周辺地域のことという説は先に紹介した通り
です。
大和、尾張は卑弥呼の晩年近くに対立しました。

魏志倭人伝を見ると、

倭の女王・卑弥呼は、狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)と素(もと)より不和な
り。倭、載斯(さし)・烏越(うお)らを遣わして郡に詣(いた)り、送って、相攻撃
する状(さま)を説く。
郡太守は塞曹掾史張政(さいそうえんしちょうせい)等を遣わし、詔書(こうしょ)
・黄幢(こうどう)*を齎(もたら)し難升米(なしめ)に拝仮(はいか)せしめ、激を
為(つく)りてこれを告諭す。 [松尾光, 2014]より引用

*:魏の正当な軍事行動を示す、柄に紐を付けて吊るした黄色い垂れ旗のこと

この後、卑弥呼は死し、男王を立てるが国中服さず互いに誅殺し、当時千余人を殺
した。
卑弥呼の一族である13才の台与を立て、やっと国が治まった。
と記されます。

意味もなく使者を送ることはしませんので、倭から魏へ使者を送ったのは支援を
求めてのことでしょう。尾張との戦いはその後、広がり国が乱れました。台与を擁
立するまで続いたとされます。
どうも不可解な点がありますので、順を追って見て行きます。

魏志倭人伝によれば尾張とは卑弥呼を共立すると間もなく、対立し始めたようです。
前述しましたように物部氏の祖を追いかけることで、1世紀末葉頃まで大型銅鐸の
生産の様子からこの地域は協調関係にあったことが分かりました。
その後、瀬戸内海ルートが開かれ大陸と繋がったために、尾張国は河内湖(大阪湾)
へ西進を始め戦乱を引き起こしました。

その後半世紀以上経った倭国大乱時はどうだったのでしょう。
瀬戸内海諸国(特に東部地域)と大和は北部九州へ討って出るために、東国対策を
しておく必要があったはずです。
西へ攻め行くためには東から、背後から尾張に攻撃されることだけは避けなければ
なりません。
そのために瀬戸内海・大和各国は北部九州を攻め落とし、大陸との交易が可能とな
った際には尾張にもその分配を約束して、和平を取り付けたのではないか。
尾張国はその約束を信頼し、大和を攻めることはなかった。
もし攻め入っていたら、広大な土地を持ち強大な戦力を持っていた国ですので、大
乱の結果は違っていた可能性があります。
しかし遺跡等からの出土品を見れば尾張の期待とは違い、大和まで銅鏡・鉄器は渡
って来ますが、尾張へはほとんど渡らなかった。
これには尾張も怒ります。
卑弥呼を各国が共立し連合体制が出来た後、尾張には鉄も銅鏡も渡って来ません。
時が経てば経つほど尾張からの「約束を守れ」という要求は益々強くなっていった
はずです。遂には戦争状態となりました。
歴史の流れを見れば、この戦いの結果は大和側の勝利に終わりました。

不可解な点とは、なぜ連合体制が崩れたのかです。
卑弥呼共立後、連合体制が終わり再び国乱れるまで半世紀以上の期間があります。
それまでに尾張は戦いを仕掛けていました。大和連合と尾張国の全面対決となるま
での時間でしょうか?
少々掛かり過ぎているのではないか?
大和(連合)は尾張国との戦いで魏に支援を求めるなど、あまりにのんびりとした
悠長な姿勢を見せています。
箸墓古墳の造りを見れば、大和連合体制は日本海側諸国を含む西日本の大半を含む
勢力圏です。倭国大乱で傷ついたとは言え時と共に回復していたはずです。
なぜ遠い魏に時間を掛けて使者を送ったのか。
どうも魏にまで支援を頼んだのは、諸国へその影響力を見せ付けるためではなかっ
たか。
魏との強い繋がりを見せるには絶好の機会でした。
尾張との戦いが連合体制を壊したのであれば、もっと早い時期に崩れ去っている
べきでしょう。
連合体制の崩壊は大和側の作為を感じるのです。

満を持して大和・瀬戸内海勢力は連合体制を破壊し、尾張国を相手に戦いを挑んだ
と見えるのです。

この3世紀半ばという時期には幾つかの事が起きています。
出雲西部から中央部を支配下に置いていた出雲の王族が忽然と姿を消します。
また同国の荒神谷遺跡に350本以上の銅剣が埋納されたのは、島根大学理学部の調
査により同時代250年頃と判明しています。
248年とされる卑弥呼の死、出雲王族の消滅、銅剣埋納、古事記にのみ記され日本
書紀には書かれないヤマトタケルの出雲騙し討ち伝承、大国主より出雲は譲られた
とする国譲り神話。
これらを結び付けた推理は「古事記に秘めた願い」(国譲りの真実)で述べています
ので、ここでは触れませんが、今回の再検討で見えてきたのは大和連合体制の崩壊
は周到に準備されたものであろうという事です。

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