大和建国へ(5) 卑弥呼の出生地を推定する

卑弥呼一族の出生地
 
倭国大乱が治まり、各国が女王を共立します。
その卑弥呼とその一族はどこからやって来たのでしょうか?
下の図は候補地です。
あまり小さな国では発言力が小さすぎますので、やはり国力・地域勢力の大きさは
一つの目安になるでしょう。

 

まず尾張国、北九州地域は候補から落としました。
尾張国は狗奴国のことであると考古学から強い説が出ています。 [橋本輝彦・白石
太一郎・坂井秀弥, 2014]
魏志倭人伝によれば、邪馬台国と以前より仲が悪く、卑弥呼の晩年近くには武力衝
突となっています。銅鏡の出土も少なく、大陸との交易は日本海側ルートを通じて
行っていた尾張国。しかも関が原を経由せざるを得ないため、季節性が強く冬は雪
で使えないルートです。
この国は神仙思想、卜骨占いとは縁が薄いと見られ、候補地には相応しくないと考
えます。

北九州地域は朝鮮半島、大陸との関係が強く、最も繁栄した地域で、銅鏡・鉄器共
に大量に出土しています。しかしながら倭国大乱における被征服地です。
伊都国には一大卒という監視体制が敷かれ、大和から多くの土器が流入しています
つまり邪馬台国のかなり強い支配を受けていた地であったと見られます。
この敗戦国の地域から、戦勝国が女王を共立するとはやはり考えにくいのです。
残るのは当初影響力が大きかった吉備国周辺、出雲を含む山陰地域、大和国周辺で
す。

吉備国はどうでしょうか。
戦勝国の中でも中心的な国の一つでしょう。しかしながら当時の巫女を育てる要因
は何であったか。
占い・祭祀の一族を育てる環境は外洋航海により作り上げられたのではないか。
特に大陸への航海は特別なものであった。
命を懸け、国の命運さへも握るものでした。

持衰(じさい)についての魏志倭人伝の表記
中国往還の渡海の際には、つねに一人の人物を、頭髪を梳かせないで、しらみをと
らず、衣服を垢で汚れたままにし、肉を食べず、婦人を近づけないで、喪に服して
いる人のようにする。これを「持衰」という。もし、航海が無事なら、人々は彼に
「生口」や財物を与える。
しかし、病人が出たりした場合、暴風雨の被害に遭った時には、これを殺そうとす
る。持衰が禁忌を守らなかったせいだという。

同書は倭国においてあらゆる大事な事柄を行うとき、決めるときには占いをしたと
あります。持衰の例からも中国への渡海は最重要イベントであり、しかも機会の多
いものであったはずです。
占い文化を大きく育てたであろう大陸への中国への航海が少ない吉備は外れます。

 

写真は占いで使われた骨 左は中国のもの(富士美術館 「漢字三千年展」にて撮影) 、右は唐古鍵
遺跡より出土(唐古鍵考古ミュージアム蔵) 
中国、日本のものもそっくりです。違いは中国のト骨には文字が書かれています。
北部九州に近い出雲は倭国大乱において大きな活躍があったと見られます。しかし
ながらその後の首都は大和となりました。当時、この二国間には政治的な思惑が渦
巻き、強く綱引きが行われていたと推測します。
この政治情勢辺りは「古事記に秘めた願い」P.163「大和第二の建国」で触れてい
ますので、詳細は割愛しますが、こうした情勢上、出雲または大和周辺国からの擁
立は難しかったと考えます。(あちらを立てればこちらが、というやつです)
そうすると中国大陸との交易があり、頻繁に外洋航海を行っていた地域となると、
やはり山陰地域を筆頭に挙げざるを得ません。
当時のこの地域の中心的な旦波(たには)国というのは、古くさかのぼればその領
域は広がり、少なくとも丹波、丹後、但馬、若狭を支配していたようです。
 [伴とし子, 2012]

卑弥呼・台与をモデルに神功皇后は記紀編纂時に作られた実在しない人物です。日
本書紀本文には皇后の御世は卑弥呼、台与の時代であることが明記されていること
から分かります。
その神功皇后の父系を辿れば開化天皇に繋がり、開化天皇は丹波との強い関係が描
かれます。母系はアメノヒボコに繋がり、この人物は但馬国で後継を残しました。
以前、紹介しました天橋立近くの籠神社(このじんじゃ)には日本最古の系図が伝
わり、卑弥呼と見られる名前が載ります。
そのまま史実であったとは思いませんが、伝承は残っていたのかも知れません。
確実に言えることは、神功皇后紀の記述、延喜式にも載る籠神社の創建年代の古さ
から、記紀編纂者は山陰との繋がりをなにがしか認識していたというこです。
その為に記紀に記し、モノとして神社も建立したのでしょう。

山陰地域の中でも、多くの鉄器の出土する旦波国、その古地域である但馬、丹後、
丹波、若狭を第一候補として考えるべきです。
では、こうした山陰と大和が結び付く時に、つまり国のトップを祭祀者にしようと
なった時に、女王に相応しい巫女やその一族はいるのか、いるとすればどこにいい
てどの国の王と関係が深いのか、そうした情報を持っていた、若しくは探すことが
できる人物、一族は物部氏です。
瀬戸内海東部、大和周辺国、旦波国との大型銅鐸により各地と強い関係があったの
はこの一族です。最も豊富な情報を持ちえたでしょう。
以前も申し上げましたが、銅鐸は祭器・神器であるためにただ作れば終わりではな
いはず。それを出荷から納めるための祭祀手順を知り、現地でもその地の祭祀者と
共に銅鐸を実際に祀ったのではないか。
触れることが出来る人の規制(物部氏関係者のみか)もあったかも知れません
今の沖ノ島の入島規制など厳しいありようを見ればこうした想像は、的外れとは思
えないのです。

 

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