大和建国へ(4) 倭国大乱

倭国大乱へ

2世紀初めに建国された大和はその後、いわゆる倭国大乱の時代へと入っていきま
す。
「其の国はもともと男子を以て王と為す。住(とど)まること7,80年にして倭国
乱れ、相功伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為せり。名付けて
卑弥呼と曰う」  [松尾光, 2014]を参考に作成

つまり倭国大乱は2世紀後半に起きた何年にも渡る戦争状態であったことが分かります。
記紀でこの時代はどこに当たるのでしょうか。
大乱まで、その準備期間は第2代綏靖天皇から9代開化天皇までの時代です。
この時代は各天皇の事績は「記すべきものがない」として書かれず、系譜のみとなり
ます。「欠史八代」と呼ばれます。
建国時については皇家や周辺一族にいくらか伝わる話もあったかも知れません。
しかしその後の時代、倭国大乱を経て大和が連合体制とは言え全国制覇へと進むま
では伝承も少なくなるのは、致し方ない事です。
中国史書を頼りにした記紀編纂者も、特に大和一国を中心とした物語を書くことは
難しかったのでしょう。
倭国大乱時、その時は第10代崇神天皇の御世です。
地域勢力の争いではなく、大和一国の全国平定とされます。
記紀編纂の目的から言えば、そう書かざるを得なかったわけです。


倭国大乱の目的と関係国
 


では、倭国大乱はどこの国と国が戦ったのでしょうか?群雄割拠する各国がそれぞ
れ勝手に戦ったのでしょうか。
どうもそうではなく、先に紹介しました「4大文化圏」の争いであったと考えます。

・北九州地域が朝鮮半島、大陸との交易を独占していた時代が長く続いた
・銅鏡の分布から1世紀中頃から後葉にかけ、瀬戸内海ルートを開き、摂津国や河
 内国へ多くの銅鏡が流れた形跡がある。2世紀になると再びこのルートは閉じた
・他の地域、国との交易は首長の責任であるため、地域内・国内からの不満、解決
 への圧力が高まった
・その結果、北部九州「広型銅矛」文化圏を除いた3つの地域が協力関係を持ち、
 北部九州へ独占状態の開放を求めた
・鉄器の流通を見ると [寺沢薫, 2000]、2世紀後半、瀬戸内海、山陰を中心とす
 る日本海側地域に流出しているため、その交渉へ北部九州側が応じる姿勢を見せ
 たが、圧倒的な格差は埋まらず、戦争状態となった
・歴史の流れを見れば女王が都した国は大和であること、女王共立後の3世紀になる
 と大和国への鉄器流通量は飛躍的に増加すること。
 またこの時期の銅鏡は北部九州からは出土しなくなり、畿内へ集中的に存在し始め
 ること

などから、倭国大乱は3地域の勢力が大陸との交易を求めて起こした乱であり、瀬戸
内海東部がその中心的存在であり、勝利者であったことが分かります。

この時の吉備国ですが、高地性集落という東部地域との共通文化を持っていたため
に瀬戸内海勢力として見ること、特に大和建国など初期においては中心的な存在で
あったとすることに異論はありませんが、女王を共立した後は大和周辺地域に力・
関心が集まり、徐々に衰退というべきか、少なくとも相対的な地位は低下していっ
たと見られます。

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