物部氏と良好な関係を「大和」で築いた神武勢はどのように国を立ち上げていった のか。 これを推測するために、いつどの一族が大和建国に加わり始めたのかを検証します。 古事記(供述)を見直してみます。 日本書紀は漢文で書かれ人々に読まれる書でしたので、当時の豪族の力関係に影響 を受けるために、今回は「古事記」を使うことにします。 まずは図の天孫降臨からです。 ここで注目すべきはやはり「中臣(なかとみ)氏」です。後に藤原氏となる一族です。 忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった豪族です。 古事記は独特の文法により書かれ、また秘匿されたために当時人に読まれることは 無いとは言え、藤原氏は特別です。 と言うのは中臣鎌足(のち藤原鎌足)は645年の大化の改新で活躍しました。記紀 編纂が始まっていた頃の人物と考えられます。古事記は712年に成立しますが、そ の時期に近づくほど藤原氏は権勢を誇ります。 また中臣鎌足は編纂者から見れば厄介な人物で、中国の史書に精通し、「六韜(りく とう)」を暗記していました。時代や記紀への魏志倭人伝などの話しの取り入れ方か ら見て、基本構想づくりに多大な影響を及ぼしたはずです。 こうした人物ですから編纂者(太安万侶の前任者)も無視することも出来ず、 「ここの物語は決まったか?」 「中国史書ではこう書かれているのだから、こうした方がいいんじゃないか」等々、 厄介な話しに悩まされたでしょう。 天孫降臨という事実上なかった話において、中臣氏がニニギ命と共にやって来たと されるのはもっともなことだと思います。 少々横道に外れますが、「先代旧事本紀」という記紀より1、2世紀後に世に出た物 部氏・尾張氏の家記のような書があります。物部系の人物により書かれたようです。 この書ではまずニギハヤヒ命が高天原より大和の地に降り立ちます。その後、記紀 と同じくニニギノ命が降臨します。 何故こうした書を作ったのか。 今回の検討で明らかです。 物部氏の本宗家は蘇我氏との仏教を巡る対立で滅んだが、各地には物部氏の末裔が たために、物部一族は藤原氏に勝るとも劣らない名門なのだというアピールです。 日本書紀ではニギハヤヒ命は神武東征前に大和入りをしています。 古事記では神武天皇が大和を平定し、 「伊那佐の山々で戦ったので腹が減った。鵜飼いの者よ、助けに来てくれ」 と歌い終わった後に、ニギハヤヒはのこのこと出てきて 「神の御子が天下ったと聞きましたので、後を追いかけて参りました」 ととんでもなく間抜けな登場の仕方をします。 紀によれば天孫降臨は180万年前です こうした記述になったのは、編纂者の「物部氏嫌い」のためでしょう。 日本の神々の姿を浮遊する神から、人格を持ち神社に坐す神に変えるためには、 仏教の力が必要です。その仏教導入や日本古来の神々の姿を変えることに祭祀者と して物部氏は猛反対をした。 そうした事情により古事記では編纂者の人間的な一面が表れたと考えます。 中臣鎌足は物部氏と共に仏教に反対しました。 もし古事記成立の近くまで鎌足が生きていれば、こうした記述は許さなかったのでは ないでしょうか。