大和建国の時代を特定する

物部氏の祖を追いかける際に大和建国に繋がった瀬戸内海、尾張・東海の2大勢力
の対立は1世紀末辺りから2世紀初めとしました。
大型銅鐸の製作年代、第2期高地性集落が造られた年代からの推定でした。
実はもう一つ、この年代は魏志倭人伝の記述とも一致します。

邪馬台国と大和建国に関する固定観念
大和国が出来る前の古い時代に、場所は特定出来ないが「邪馬台国」という女王国
が存在した。その後、「大和国」が建国され、徐々に中央集権制が成立し今の日本
に繋がった。
何となくこうした考えを持っている方が多いのではないでしょうか。
邪馬台国の場所の特定に長い期間を要したために、また記紀でも天照大神が治める
高天原がまずあり、天孫降臨により国が造られ始めたとなっているため、こうした
イメージが出来上がり、現在も多くの歴史に関する本はこの考え方の上に書かれて
います。
この邪馬台国から繋がりは不明だが、その後大和国ができ成長してきたというこの
考え方は、歴史を見るときのフレームワーク、思考の枠組みとも言えるほど強固な
ものとなっています。
史実を見極めていくためには、この枠組みを壊す必要があります。

考古学(物証)に重きを置けば、いま邪馬台国は奈良県桜井市の纏向遺跡とほぼ
特定され、2世紀終わりから4世紀初めに掛けて繁栄をしていたことが分かってい
ます。
それを前提に魏氏倭人を読んでみると大和国建国のあり方、その時代が分かります。
因みに「邪馬台国」を「やまたいこく」と読むのは今の私たちの読み方です。古代
中国語においては「やまと」と発音したという説が今は主流になっています。 

魏志倭人伝が示すもの
魏志倭人伝は長い間、多くの人に読まれてきたにも関わらず、大和建国に触れてい
るという説は聞いたことがないかも知れません。
それは下の一文がその原因なのです。
【問題の個所】
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王

・訳
その国、もともと男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、
相攻伐すること歴年、及(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。
[石原道博, 1951]を参考に作成

邪馬台国までの道程を記し、みんな刺青をしているなど倭人の習俗を説明した後に
この文章が来ます。
もし魏志倭人伝の本を持っていればこの個所を見てください。
多くの本が「其國」を「その国」ではなく「倭国」もしくは「倭の国」としていま
す。
訳で「その国」としていても解説で「倭国のこと」としています。
それが間違いなのです。

「その国」を倭国とした場合、複数の国をまとめる国、地域を意味します。伊都国、
奴国、投馬国などを含む西日本、最低でも倭国と呼ぶに相応しい複数の国々が存在
する地域を統治する国(体制)が倭国大乱の70,80年前に既に存在していなければ
なりません。当時最も繁栄を誇った北九州が最も可能性が高い地域となるでしょう。
事実は違います。
女王が共立された邪馬台国という連合体制の中心地・時代は、前方後円墳を造り始
めた畿内であり、その場所は大和であること、2世紀末葉から始まることが明らか
になりました。
「その国」は邪馬台国を指し、その読み通りに大和のことです。
では魏志倭人伝をどう解釈すべきか。
大和国が2世紀初めに男子の王によって建国された。70,80年経った後、何年
にも及ぶ大乱が起こり、それを経て各国が共立する女王が誕生した。

つまり最初は一地方国の大和が生まれ、2世紀末に近いころ西日本を統治する連合
体制となった。首都は女王が都する邪馬台国(大和国)であった。
奈良盆地に建国された大和を遠い外国である中国から望遠鏡で覗いた一時的な姿が、
邪馬台国として記されたのです。

物証と記録が示すものは、邪馬台国と大和というのは別々の国ではなく「ヤマト」
という一国の成長過程なのです。
繰り返しになりますが、従来の固定観念を打ち破って新しい視点を持つことが史実
に迫るためには必須なことです。

 

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