・物部氏を追いかける(8) 神武天皇・ニギハヤヒ命会談の実現

清水風遺跡の絵画土器より作成した羽飾りの戦士(祭りの場)

奈良盆地の状勢図

神武天皇とニギハヤヒと記紀で呼ばれる物部氏の祖との出会いはどのようなもので
あったか。
なぜ物部氏は天孫族として、天に繋がる一族として書かれたのか。

一般的にどうでしょうか、神武天皇率いる軍勢は宇陀から奈良盆地に入りこの地を
席巻したというイメージを持っているのではないでしょうか。
私もそう思っていました。
ところが戦った場所の地名が幾つか出てきますが、多くの戦いは図の赤い「✖」印
の場所、全て盆地の南東部で三輪山にも届かない南側です。
記紀共に神武天皇は南東部の山地にいたとします。

また盆地内部にも高地性集落がありました。 [石野博信, 2015]
盆地西側の生駒山地から始まる高地性集落群は、その布陣から高槻市のものと同じ
く戦いの初期に作られたものと見えます。
防衛ラインの構築でしょう。
盆地南東、特に東側に散在するものは、戦いの終了頃、若しくは終わった後に尾張
勢の再びの西進を懸念しての監視用のものではないかと考えます。
大型銅鐸という祭器を生産していた大きな在住一族がこの地には存在したこと。
後に大和政権において祭祀を担当した物部氏との類似性。
尾張以東には達しなかった銅鏡の分布、倭国大乱の物的証拠とされた高地性集落の
年代が最近の研究で半世紀ほど早まった事実。*
これらの事実から強く示唆される2勢力の対立。
魏志倭人伝に女王が都する国は女王共立の70、80年前に男子の王によって建国
されたと記され、またこの書は供述には違いありませんが、他の書に比べれば記録
に近いとされること。
勝手な改ざんは許されないであろう日向から来たとされる皇家の出自伝承。

奈良盆地で何が起こったのか、推測してみます。

*: これは話してなかったかも知れません。これらの集落こそが倭国大乱時に活躍し
 たと思われていましたが、時代が違うようです。歴史的な意義、位置づけに歴史
 研究者は迷っているように見えます。これはまた別途お話しします。

神武天皇一行は日向を出て、河内湖にやって来た。
しかしそこは激戦の地に近く、瀬戸内海勢の多くの船で埋め尽くされており、小軍
である日向軍の出る幕はなかった。
生駒から金剛山地まで瀬戸内海勢は高地性集落を作り、蟻のはい出る隙間もなかっ
た。
盆地南東部に進んだのは、戦況から見ての独自の判断か、瀬戸内海勢から名張経由
の尾張軍の支援部隊の遮断を依頼されたか、どちらにしても結果から見ても合理的
な正しい行動であった。
皇軍が紀の川を遡り、最後は宇陀に着き様子を窺ってみると在住一族には戦意は見
られなかった。彼らには戦う理由がなく、むしろ最も関係が深かった瀬戸内海諸国
との関係が悪化すること、途切れることを恐れていた。
淀川沿いでは激しい戦いが続く中、大和湖を支配し唐古鍵で大型銅鐸を作っていた
在住一足の中でもとりわけ有力な一族と接触した。さすがに大型銅鐸を生産してい
る唐古鍵のことは日向でも知られていた。
その一族は瀬戸内海勢側に味方することに同意した。他の一族も説得すると言う。
奈良盆地在住の一族が寝返ったこと、瀬戸内海勢側についたことを知った尾張勢は
崩れ始めた。一部徹底抗戦を唱える者もあったが、兵站が思うに任せない地。
また九州北部の勢力が再び瀬戸内海ルートを閉じたことは、河内湖進出の意義を既
に失っており、撤退の声が出ていた尾張勢にとって、この戦いを終わらせる決断は
難しいものではなかった。

しかし何故日向勢が接触するまで、瀬戸内海勢と盆地在住一族の交渉がなかったの
か。
やはり盆地東南部は一種の空白状態だった。西側では尾張軍、意に添わぬままの在
住勢力が混在する軍と瀬戸内海勢が戦闘状態であり、首長同士の話し合いに至る状
態ではなかった。
また尾張型とも言える三遠式大型銅鐸製作の工房を造った物部氏に尾張国は深い恩
義を感じていたはずであり、「物部氏に手を下すべからず」との国王の意思を受け
て、本拠地近くの盆地東南部は尾張軍が最も手薄となる空白地域となっていた。
また日向勢はある期間留まって居たために、後世、神武天皇、ニギハヤヒ命の会談
と記される歴史を変える出会いが実現した。
こうして戦局を一気に決めることに繋がった戦果を挙げた日向勢は、この地域、奈
良盆地の一族たちを統治することを認められた。

ここで述べたように物部氏が大和建国に活躍したとなれば、天孫族として扱われ、
直接天に繋がる名門一族として、王族が住まう隣の石上で繁栄を誇ったとしても不
思議ではありません。
記紀において皇軍は他国への支援のためにやって来た小規模な助っ人だったとは書
けない。
独立した軍として、瀬戸内海を悠々と航海し、宇陀に出るには瀬戸内海勢の力が確
実に及んでいた紀の川から入れば充分なものを、熊野迂回という何の意味もない行
動までさせ、奈良盆地では大活躍をしたとして武勇を示しました。

どうでしょう、あまりに妄想が過ぎるでしょうか。
史実を知りたいと思った時、考古学だけではその意味、意義つまり史実に繋がるシ
ナリオが見えない時(例えば高地性集落)に、必要なのは文献史の力や想像力であ
ると考えています。
これまでお話ししてきた事が、事実に近いものなのか単なる妄想なのかを証明する
ためには、高地性集落のより正確な年代の決定。言うまでもないかも知れませんけ
ど、考古学で相対年代(古い、新しい等)は比較的決めやすいのですが、絶対年代
(西暦年でいつ頃)の決定は難しい。ただもう少し年代を絞ることが出来れば当時
の倭国2大勢力の対立状況が詳しく見えてくるはずです。
また大型銅鐸の各式(1,2,3,4,5式)のより正確な製作年代と三遠式とい
う尾張型の生産地の特定も望まれます。
そして何より日向と瀬戸内海諸国との繋がりを示す物的証拠が、遅れている九州南
部の考古学的調査の進展により出てきた時、記紀(供述)と考古学(物証)が同じ
方向を指し示すことになります。

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