奈良盆地の地図を眺めていてちょっと立ち止まって考え直した方がいいのではない か、後で紹介しますが、瀬戸内海勢の布陣から主戦場は別にあったのではないかと 思い始めました。 それで尾張国はどの経路を通り河内湖を狙ったのかを検討した図です。 再び全体を見直してみると奈良盆地が戦いの中心地と見ていたのは記紀編纂者に惑 わされていたようです。 瀬戸内海勢力の高地性集落、尾張にはこうした遺跡はないため瀬戸内海諸国のもの と分かります、この集落は現在の高槻市辺りに密集しています。 これは尾張との戦いの主な場所は奈良盆地を出た辺り、ここには巨椋池という現在 の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる大きな湖と呼んだ方が相応しい池が ありました。 主戦場は奈良盆地ではなく、この巨椋池辺りとすれば、高槻市の密度の高い集落の 存在も腑に落ちます。 生駒、金剛山地に高地性集落が存在するのは、この盆地を尾張の飛び地のように前 線基地にされては大和川から河内湖へも出られますし、大軍の拠点とすることもで きます。 防衛上重要な地でしたので、監視・駐留も出来るこうした集落を並べたのでしょう。 また日向勢という瀬戸内海、尾張・東海の軍勢に比べれば取るに足らない小軍が活 躍できた理由も見えてきます。 こうした全体像を思い浮かべながら、次回は神武天皇とニギハヤヒ命の出会いを検 討してみます。(時間かかりました。やっとです)