神武東征経路と大和湖(国土交通省公開の標高データと地図ソフトにより作成)
当時の状勢を少しでも詳しく知るために、神武東征の経路を見直してみました。 今回は「日本書紀」に基づいた再現です。なぜ「古事記」を使わず「紀」かは、 後日説明します。 白肩の津、日下辺りと言われますが、そこに船を停めて徒歩で竜田に向かいます。 しかし道が険しいため(熊野の行者道は通ったのに?)、一度戻り生駒山を超えよ うとしました。 そこで手強い敵、ナガスネヒコと戦い手痛い敗北を喫しました。 そのために船で熊野へと迂回しますが、紀伊の國に入った辺りでナガスネヒコとの 戦いで傷を負った兄、イツセ命を亡くします。 熊野に辿り着き、幾つかの戦いがありましたが、熊野の次に出てくる地名は窺邑 (うかちむら)です。今の宇陀に出てきました。 高倉山や国見の丘から国中を眺めますと、敵勢が要所要所を固めとても進むことが 出来ません。 そこで天香久山の土を取って来られるか、否かで占うことにしました。 兵、二人を老人、老婆の恰好にさせ天香久山に向かわせますと、敵勢は皇軍の兵と は思わなかったために無事に土を取り帰ってきました。 民間人はいたということでしょう。 士気が上がった神武軍は三輪山の南、忍坂にいた兄磯城(えしき)を弟磯城(おと しき)の協力もあり、墨坂・男坂・女坂に配置していた軍勢を動かし討ち取りまし た。 最後に残ったのは強敵ナガスネヒコです。 戦いを重ねましたが中々勝つことが出来ません。 そんな中、ナガスネヒコの妹を娶ったニギハヤヒ命が天孫族であることが分かりま した。 ニギハヤヒは神武天皇の下に駆け付けるとすぐ帰順しました。 しかしナガスネヒコは頑強に抵抗したため、ニギハヤヒも説得は無駄と知り自らナ ガスネヒコを討ち果たしました。 ニギハヤヒは物部氏の祖です。 これから物部氏の姿について検討していきますが、その前に説明しておくべきこと があります。 神武天皇が行動した範囲は奈良盆地の南側であること。 この盆地には大和湖という湖があったことが知られています。 図の大和湖は標高47mまでの土地には水があったとして、推定した湖の範囲です。 現在の地形で作ったものですので、必ずしも正確なものではありません。47mと したのは縄文時代からある唐古鍵が現在の地形で標高48mですので、これを一つ の目処としました。唐古鍵は遺跡から大きな洪水により何度も環濠が埋まったこと が分かっています。 以前より神武天皇の行動経路は標高60m以上の場所であり、これは後に消えてい た大和湖が神武東征時には存在し、そのために高い場所でのみ行動した。 つまり神武東征が史実でありその話が伝わっていたことの証拠であるという説があ りますが、実際に地図を描いてみると神武天皇は南部の山の中から出てきていませ ん。ニギハヤヒとの会談場所は明らかではありませんが、唐古鍵、三輪山近くなど の盆地南部であろうかと考えます。どうもあまりに湖から逃れようと記紀編纂者は 慎重になり過ぎたように見えます。 日向の出であるという伝承、こうした出自については特に大きな一族の場合残って いてもおかしくはないと思いますが、どこに寄って誰と戦ったなどの細かい話しま では、やはり伝わってはいなかったと考えるべきでしょう。 尾張国の目的は大阪湾(河内湖)の奪取です。 北部中心にナガスネヒコなど精鋭を配したとしても不思議はありません。