尾張国は大陸との直接交易を求めて奈良盆地に侵攻してきました。 吉備国を中心とする瀬戸内海勢力はこれを食い止める必要がありました。 もし河内湖(現在の大阪湾)まで進出されてしまえば、淀川から琵琶湖を経由する 日本海ルートを失うことになります。また西の北九州勢、大阪湾に進出してきた東 の尾張・東海勢との挟み撃ちにも遭いかねません。 当時、奈良盆地と大阪湾は大和川で結ばれており、舟で行き来が出来たのです。 今の堺に向かう大和川は江戸時代の川違え(付替え)工事によって流れが変えられ たものです。 尾張国に奈良盆地に拠点を構えられた場合、瀬戸内海勢は大きな危機を迎えます。図 8 [梶山彦太郎・市原実, 1986]より引用 (難波の宮は筆者追記。後世にここに建てられた) 図8と次の図9の両方に載る地「日下」を見ると当時の大阪平野はたいへん狭く、 ここで河内湖や瀬戸内海を守るのは難しかったでしょう。尾張・東海勢力の西進を 止めるために、瀬戸内海勢力は奈良盆地を奪い返す戦いとなりました。 高地性集落の分布を見ても生駒の山々の麓でまず激戦となったはずです。(図9の 赤線部分) 実は奈良盆地が位置する地形が瀬戸内海勢に有利に働きます。 奈良盆地での戦闘は尾張からは遠く兵站が厳しいのです。奈良の東方にある鈴鹿山 脈や三輪山も属する笠置山地など険しい山々が尾張の西進を困難なものにしました。 近畿式、三遠式の銅鐸が出土する琵琶湖を使い、淀川で奈良北部に出て兵站を行う ことはどうでしょうか。 琵琶湖周辺国の協力を得られれば可能でしょうが、得られなかった場合、舟を琵琶 湖へ運ぶことになります。戦いの結果から見れば協力を得られなかった。 琵琶湖周辺の国々は一番の得意先であり、淀川でいつでも攻めてくる可能性がある 瀬戸内海勢を優先したようです。 紀伊半島の巨大さも邪魔をしました。潮岬を回り込むには距離があり過ぎます。加 えて近畿式の大型銅鐸の分布を見ても紀伊国、阿波国に配布されており、瀬戸内海 勢は紀伊水道の守りを固めていました。 尾張にとっては海を使っての攻略も難しい場所でした
図 9 奈良盆地周辺の地形 この戦いは瀬戸内海勢力が勝利し、奈良盆地を手中に治め大和国を建国しました。 魏志倭人伝によれば2世紀初めのことです。 近畿式大型銅鐸は出土状況から、順調に発展、配布されたようですので、この戦い はあまり長期間に及ぶものではなかったと推測します。 また2世紀初頭、北九州勢力は瀬戸内海ルート等を閉鎖し再び独占状態に戻しまし た。つまり尾張は西進の意味を失ったのです。 尾張の西進は3世紀半ば頃にもう一度始まりますが、それまで休戦となりました。 三遠式銅鐸も3式が作られた後、衰退していきます。 日本海側ルートを諦めたように見えます。 これは尾張にしてみれば琵琶湖へ辿り着くには、唯一開いた谷地である関が原を通 るしかなかった。今の新幹線のコースです。淀川を使いほとんどが水路の瀬戸内海 勢に比べ、陸路が長くその労力は割に合わなかったのかも知れません。 奈良盆地争奪戦では不利な状況の中で尾張国が、この戦いで勝つために最も必要だ ったものは在住一族の協力であったはずです。 しかし記紀の伝承にあるように、また歴史に残るように物部氏は大和政権において 大きな力を持ちました。物部氏、もしくは他にも有力な一族がいたかも知れません が、彼らは瀬戸内海勢に味方したと見られます。 そうすると尾張国は工房の維持のための物部氏の協力を得ることも出来なくなりま した。後を継ぐ世代の工人や潤沢な材料の確保が出来ずに衰退していったのでしょ う。 大和は3世紀半ば、再び尾張(狗奴)と戦うことになります。魏志倭人伝ある卑弥 呼の晩年近くの戦いです。 この時、邪馬台国(大和)は魏に支援を求めざるを得ないほど厳しいものでした。 その理由はこの戦いでは前線が鈴鹿山脈を超えていく必要があったからでしょう。 奈良盆地側で戦えば王都に敵を入れることになるので、伊勢平野側へ出ていく必要 があった。 兵站の厳しさが今度は邪馬台国側に災いしました。 次回は伝承(記紀)を中心に大和建国時代と物部氏の姿を検討することにします。