近畿地方の「見る銅鐸」の分布 [岸本直文, 2014]を参考に作成
大和建国を2世紀前半とするとそれ以前の時代、祭器であり地域の象徴である銅鐸 の分布が重なり合うことから、瀬戸内海勢力と尾張・東海勢力は協調していたよう です。 近畿型、尾張型銅鐸は兄弟銅鐸と呼ばれるほどそっくりです。近畿型は唐古鍵で渡 来人により最新技術で生産されていたとみられ始めています。 その銅鐸と同じものが作れる工房が尾張にもあった。尾張型は突線紐3式のみであ ることから、2式の時代に工房を建て技術も移入したのでしょう。 次に協調してなにをしたか。 重複する場所を追いかけると琵琶湖を使い、旦波(丹波・丹後)へ向かっています。 これは北九州勢力が閉鎖する瀬戸内海ルートは諦め、日本海側ルートに活路を見出 し、朝鮮半島や大陸との直接取引を行っていたと思われます。 福永伸哉氏の説を「邪馬台国から大和政権へ」から紹介します。大胆な説です。 まず1990年代以降の発掘調査によって、日本海地域の目を見張るような繁栄の 様子が明らかになってきたことを指摘しています。 丹後半島にある峰山町扇谷遺跡からは弥生前期末~中期初頭の鉄斧が出土し、大陸 との交易が認められていた。同じ丹後半島の奈良岡遺跡からは中期後葉の鉄器とし ては北部九州を含めて列島屈指の量となる8kg以上の鉄素材が出土し、この地域 の交易力への認識をあらたにした。 広い平野に恵まれず農業生産力は決して豊かではない丹後地域がこれほどの力を蓄 えた原動力は、天然の良港と荒波をこえる航海術を武器にして、鉄素材を中心とす る流通拠点として台頭したのだろう。 として、大陸との直接取引とする根拠を次のように述べます。 「大陸の鉄器や鉄素材の多くが、北部九州を経由して流入したと考える必要もある まい。北部九州からこれだけ多量の大陸物資がもたらされたとしたら当然含まれて よい後漢代の銅鏡が、日本海地域にきわめて少ないことはその証左ともいえる。」 北部九州の勢力下にある対馬を通らなければ半島には渡れないと思っていたのは先 入観が強すぎたためのようです。 丹後から直接はリスクが大きすぎるとすれば、出雲の隠岐の島から一気に、もしく は長門辺りへ出て半島を目指したのでしょうか。 しかしそれほどの航海能力はあったのだろうか? 漂流すれば親潮に東へ流されます。手漕ぎだけでは無理ではないだろうか。 そこで思い出したのが「おきよ船」です。「おきよ船」 橿原神宮所蔵
神武天皇が日向から大和へ向かった時に使った船です。帆が張ってあります。 出航の日を決めて風待ちをしていたところ、天候が良くなったことから急遽出航と なり、夜明けに船出。寝入っている人々を起こしてまわる「起きよ、起きよ」の声 が港に響いた。 という伝承から「おきよ船」と呼ばれます。 しかしこれは後世にいくらでも作ることができる話です。 そこで絵画土器を探してみたところ2例ありました。
弥生時代の土器に描かれる帆船
市原市の天神台遺跡、大垣市の荒尾南遺跡から出土した土器に帆を張った船が描か れていました。 下の荒尾南遺跡のものは左と右の帆船、中央の手漕ぎ船と三艘が描かれています。 弥生時代には布を織れますので、帆船によって航海能力は高かったと考えてよさそ うです。 最後に一つ考慮しておきたいのは、こうした航海はたいへん高いリスクがあったこ と。 つまり「占い」はこうした高い航海術があった地域ほど必要とされ、発展していた と思われるということです。