
卑弥呼一族の話しをしようとすると実は物部氏に登場し活躍してもらう必要があり
ます。(構想検討中に気が付きました)
そこで今回は物部氏登場までの舞台設定です。
図は倭国大乱直前の2世紀後葉、地域首長連合を代表するシンボルの分布 [福永伸
哉, 2001]です。
福永氏によれば「学校には校章が、会社には社員バッジが、国には国旗があるよう
に、現代においてもたがいが仲間と認め合えるシンボルを共有する意味は失われて
いない。 - 中略 -
人々は自分の属する集団の政治的立場と連携相手を理解し、それを主導するわが首
長の偉大さを認識したのではなかろうか」
氏の考え方に賛成します。まさしくそうした国、地域を象徴するものがこの時代に
現れました。
特徴、注目ポイントです。
北九州の広型銅矛は銅鐸の大型化と競うように大きくなっていきました。四国西部
がこの範囲に入っている、つまり北九州の影響が強く及んでいることは注目に値し
ます。
思っていたよりも四国南の太平洋側の海域の防衛に瀬戸内海、畿内勢力は苦労した
のではないでしょうか。中心国である吉備国は高い緊張状態にあったと想像します。
日向は空白地域です。
突線紐式銅鐸(見る銅鐸)
大和建国のころ、大きな銅鐸が唐古鍵で作られ始めました。近畿型と呼ばれます。
その範囲は大変広いものです。建国後おおよそ半世紀でこれだけの影響力を持った
のは、大和地域の持つ生産潜在能力だけではなく、下に述べる尾張との協調関係
もあったと思われます。
ほどなくして尾張・東海地方でも尾張型というそっくりなものが作られ始めました。
分布する範囲も重なります。
このことから大和と尾張が協調関係にあったとされます。
が、尾張型は初期の短期間で生産は終了してしまいます。
これらを魏志倭人伝、記紀と合わせてみると大和(邪馬台国)、尾張(狗奴国)
の複雑な事情が浮かんできます。
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