一つ前提をはっきりさせておく必要があるかなと思いました。 邪馬台国と大和政権の関係です。 世の中では邪馬台国がまず存在し、次に大和政権が誕生したとする説がまぁ定説 でしょう。 なぜでしょうか? 何となく最初の女王を各国が共立したのだから、邪馬台国が先にあるのだろうと いう先入観からきているように思います。 邪馬台国の場所が分からなかった時代はそれでも通用しましたが、現在のように ほぼ特定されてきた今、これをはっきりとさせる必要があります。 遺跡(物証)と文献(供述)からみた私の考え方は以下の通りです。 2世紀初頭に大和国は建国され、それからおおよそ半世紀後、卑弥呼を女王とし 西日本を中心とする連合体となった。その首都となった国を中国史書では邪馬台 国と記した。 つまり大和国のある時代を中国という遠い外国から望遠鏡で眺めた姿が邪馬台( ヤマトと発音します)国です。 邪馬台国の場所を奈良県桜井市の纏向とする理由は、 邪馬台国はどこにあった? を参照ください。 また新しい情報としては纏向遺跡は炭素14測定により、2世紀前葉に形成が 始まったという研究結果が発表されました。 この研究成果は魏志倭人伝にある ”そもそもその国は7、80年前に男子を王として建国された” とする記述と 一致します。 つまり一貫して大和国なのですが、もう少し細かくみると 大和国(一地方国)→ 邪馬台国(連合体制の首都)→ 大和国(全国体制へ) との変遷を辿ったとするのが最も合理的であると考えます。