ヤマト国の始まりを考える(3) 究極の選択

一つの疑問です。
なぜ記紀編纂者たちは卑弥呼、台与を天皇として描かなかったのか。
神功皇后という人物を仕立て登場させたのか。
日本書紀では神功皇后紀と一つの章をたて、天皇と同格に扱っています。
またそこでこの時代が邪馬台国の卑弥呼、台与の時代と敢えて分かる記述を本文
の中に記しました。
神功皇后という人物は架空の人物であるということは現在は疑いようがありませ
ん。
なぜそうしたのか?
卑弥呼、台与をそのまま天皇として描く選択もあったはずです。

幾つかの理由が考えられます。
一つは明らかに王族の血を引いていないこと。
卑弥呼は各国に共立されたとあります。つまり他の国と同じように大和国の政治
指導者(この一族が後に天皇となる)は別にいる体制(大和国王)だった。
魏志倭人伝には”官に「伊支馬」がある。次は「弥馬升」・・・”とあり、これが
大和国の王名ではないかと以前から指摘されます。
垂仁天皇は「いくめいりびこいさちのみこと」、崇神天皇は「みまきいりびこい
にえのすめらのみこと」であり「いくめ」「みまき」と発音が似ているからです。
(ここの議論は後日またすることにします)
大和を首都にし、大和から女王も出すとすると倭国=大和国となります。
これでは共立体制ではなく支配です。卑弥呼共立への賛同は得られないでしょう。
出雲が黙っていないはずです。
卑弥呼は他国から連れてこられたと考えるべきでしょう。

次に当時は葬祭分離が出来ていません。
5世紀になるまで肉体と魂は一体のものでしたので、葬いと祭りは一緒のもので
した。
卑弥呼や台与は祭りの面が強調されて伝わっていますが、葬いにも関わっていた
可能性があります。本人ではなくても一族が扱ったのではないでしょうか。
後世の編纂者たちかには、こうした「占い師」という職業への蔑視が少々あった
かも知れません。

最後に卑弥呼、台与を天皇(大王)つまりいくつもの国を治める王の中の王とし
て描けば、卑弥呼の死のあとに問題が出てきます。
魏志倭人伝の”国が再び乱れ男王を擁立したが治まらず”という記述です。
大王から一度単なる「王」に戻ってしまいます。
これは大和の快進撃を伝える、特に日本書紀では書きにくいかも知れません。
これらのことから父系は開花天皇に繋がり、母系は天之日矛(アメノヒボコ)と
いう外国の地が入った不思議な力を持つ皇后として登場させたと考えます。
もし私が記紀編纂者会に入っていたら、この記述に賛成したかも知れません。

卑弥呼の一族はその後どこに行ったのでしょうか?
後日、ホアカリ命の別名はニギハヤヒ、山陰降臨説が根強く残るニギハヤヒを
祖神とする祭祀を担当した物部氏、狭隘な地の丹後地方の繁栄といった話などか
ら、一つの仮説を提示します。

 

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