出雲の銅鐸 古代出雲歴史博物館蔵
また淡路島に関係した大きなニュースが出ました。 淡路島と出雲の銅鐸が同じ鋳型から作られていることが分かりました。 先日ご紹介しました吊って鳴らす「聞く銅鐸」です。 このニュースを知った時に一つの仮説を持ちました。 紀元前から後に変わる頃、弥生集落の廃絶とともにこれらの銅鐸は地中に埋納され ます。その方法が「ヒレ」を上下にして複数のものを「入れ子」にするという同じ 方法なのです。 不思議な話しです。 政治的な圧力があれば簡単なことなのですが、これだけ広域を統治する政治体制は 当時存在していません。 納得性のある説は今までないのです。 で、仮説です。 この弥生時代前期末~中期初め(紀元前3~前2世紀)は平和な時代でした。 今回の記事が伝えるように今の私たちが考えるよりも強い地域間連携があった。 生産が進む中、埋納方法も段々と決まっていった。 「この新しい銅鐸を古いものの代わりとしたいのだが、古い銅鐸はどうすれば良 いだろうか?」 「こうすればいかがでしょうか?他の集落でやってますが悪いことは起っており ませんので」 こうしてヒレを上下に入れ子にする土中埋納方法が、生産している工房を中心に 銅鐸を注文し、受け取る際に各地域に伝わっていたのではないか。 工房は出雲にあったのではないかとする説が従来よりありますが、この点も明ら かになっていくことを期待します。 もう一つ、淡路島の重要性ですが、この島はイザナギ、イザナミが最初にうまく 造った島です。 この前に2つ失敗してます。 なぜ最初にこの島が造られたのか。 大和政権を産み出すには奈良の盆地に先住し影響下に治めていた勢力*を制圧しな ければなりません。 その勢力からこの地を奪う為に瀬戸内海勢力にとってこの地は大きな足掛かりとな りました。 その為に記紀においては淡路島から造られ、最後に大倭豐秋津島(オオヤマトトヨ アキツシマ)と呼ばれた本州で締めくくったのではないでしょうか。 *:私は尾張の影響下にあったと考えています。大和国の始まりを考える(2)
昨年4月に兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった弥生時代前期末~中期初め(紀元前3~前2世紀)の松帆銅鐸(どうたく)(7個)のうち5号銅鐸が、島根県出雲市の荒神谷(こうじんだに)遺跡(6個、国宝)の6号と同じ鋳型(同笵=どうはん)で作られた兄弟銅鐸だったことが分かった。南あわじ市教委と奈良文化財研究所が26日発表した。松帆3号と、同県雲南市の加茂岩倉遺跡(39個、国宝)の27号との兄弟関係も既に判明しており、淡路と出雲が共通の工人集団や銅鐸の流通で広域につながっていたことも明確になった。