尾張はなぜ瀬戸内勢の大和進出を黙って見過ごしたのだろうか? 前回、瀬戸内海勢が奈良の盆地を支配下に治めようと高地性集落を生駒山地など へ配置したことを紹介しました。 そこで大きな疑問が出ます。 なぜ尾張がこの大和の地を奪われた時に奪回しようと大きな戦争にならなかった のか。 後に邪馬台国は魏に支援を求めるほど狗奴国(尾張・東海勢)は強国でした。 ところが戦争にならなかったと言うよりもそっくりな銅鐸を作るなど、大和と尾 張は協力関係にさえあったようなのです。 これが最大の疑問でした。 答えは鏡の分布にあるようです。
邪馬台国から大和王権へ ナカニシヤ出版より引用
漢鏡5期の時代(1世紀後半)は、北九州勢が半島・大陸との交易を開き、各国 へ鏡など先進文物が流れ込んでいました。 当然のことながら尾張は西への進出を図ります。大阪湾をうかがうほどになって 来ました。瀬戸内海ルートが最も効率が良いためです。 瀬戸内勢はこれを止めようとします。 ところがその後、漢鏡6期(2世紀)になると再び北九州は門戸を閉ざします。 そうなると尾張にとって瀬戸内海への進出は意味がなくなります。 以前のように琵琶湖、丹波・丹後を経由し北九州と交易のある出雲へと向かう日 本海側ルートが重要となります。 つまり敢えて奈良盆地を奪回する目的を失ったわけです。 これが半世紀後に起こる倭国大乱に大きな影響を及ぼします。 東の脅威が取り除かれた大和・瀬戸内勢力は西へ照準を定めることが出来たので す。
古代出雲歴史博物館蔵
出雲から多く出土する銅矛は北九州産であることが分かっています。 刃先の研ぎ方、文様のつけ方が独特とのことです。 出雲と北九州勢の強い関係を見ることができます。