奈良県桜井市の纏向遺跡は邪馬台国の最有力候補地と言われます。 いったいいつ頃建設されたのしょうか? 2014年に炭素14測定により2世紀第2四半期(125-150年)に纏向遺 跡の形成が始まるとの研究報告が出されました。(国立歴史民族博物館研究報告 第185集 岸本直文) 日本書紀には橿原の宮で神武天皇が即位したのは「辛酉」の年とあり、西暦12 1年のことと考えられます。 魏志倭人伝によれば、 其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年 その国はもともと男子を王とし7,80年が経ち、倭国乱れ内乱状態となった 倭国大乱は189年には治まっていましたので、邪馬台国は2世紀前半に建国 されたと見ることが出来ます。 そうすると考古学、文献史ともに2世紀前半という同じ時代を指していると見 て、いいのではないか。 では、その120年頃に何が起きていたのかを推測しようとすると、下図の弥生 時代後期の高地性集落の分布が役に立ちます。 稲作には低地が向いていますが、高地性集落は平地よりも数十メートル上に作 られた戦争用の集落です。
「古事記」に秘めた願いより引用
大和のあたりを見ると、瀬戸内海勢力が生駒山地周辺に多くの高地性集落を作り、 奈良盆地へ攻め入ろうとする姿勢が見えるようです。 つまりこの時代、この盆地は鉄素材などを求めて西進する尾張・東海勢の影響下 にあったのでしょう。 その地を攻防を記紀においては神武東征の勇ましい伝承として描きました。 ここに「見る銅鐸」や北九州の「広型銅矛」の分布を重ねると詳細が見えてきます。