見る銅鐸、聞く銅鐸

見る銅鐸

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滋賀県野洲市歴史民俗博物館、通称「銅鐸博物館」にある銅鐸です。
野洲市からは大きな銅鐸が多く出土します。写真のものは高さ130cm強、重さ
45kgほどの日本一大きなものです。
置いておくだけの銅鐸で「見る銅鐸」と呼ばれます。
唐古鍵遺跡で作られたようで、時期は吉備を中心とした瀬戸内海勢力が大和へ入り
始めた頃1世紀後半から作られ始め、倭国大乱を迎える2世紀後半にはより競うよ
うに大きなものが作られました。
この銅鐸は2世紀後半あたりと思われます。
野洲市が興味深いのは東海型という尾張勢力が作ったと思われる「三遠式」と言わ
れるこの近畿式とそっくりで、周りの耳飾りがないものも出土するのです。
大和勢と尾張勢、つまり邪馬台国と狗奴国が競い合って日本海に出ようとせめぎあ
った地と見ることができます。
行先は多分、主に出雲でしょう。
北九州と取り引きができた国です。

聞く銅鐸pa130050awb%e6%a8%99%e6%ba%96%e6%a8%99%e6%ba%96%e4%b8%8a%e4%b8%8b%ef%bd%9331_r

この大型銅鐸の前に作られていた吊るして鳴らす「聞く銅鐸」はどこにいったので
しょう?
上の写真のように弥生集落の共同体の祭器でした。
紀元前200年ころから作られていましたが、紀元前から紀元後へ変わるころ多く
の弥生集落は廃絶されていきます。
もっと大きな地域連携が求められたのでしょう。
集落が廃絶されるときにこれらの銅鐸も埋葬と言えるほど丁寧に埋納されたと見ら
れています。

滋賀県野洲(やす)市の場所です。

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琵琶湖を水運に使い、もう一つの近畿式、三遠式の銅鐸が出土した場所。丹後まで
行き出雲と交易をしたと考えられます。
大和は早い時代から山城、近江、旦波(丹波・丹後の古名)を東国との防衛ライン
として重要視していたことは、記紀から読み取ることができます。

先日、すぐ近くの彦根市の稲部遺跡で大発見がありました。
銅鐸の分布と併せてみると分かりやすいので、ご興味のある方はこちらをご覧くだ
さい。
滋賀・稲部遺跡:大規模な鉄器工房遺構 「邪馬台国」時代
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