滋賀・稲部遺跡:大規模な鉄器工房遺構 「邪馬台国」時代

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昨日(2016/10/17)、大きなニュースが入ってきました。
滋賀県彦根市の「稲部(いなべ)遺跡」で弥生時代終末から古墳時代初め(3世
紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかりました。
記事を要約すると
3世紀前半つまり邪馬台国前期(卑弥呼の時代)の30棟以上の鉄器工房群が鉄
片や鉄塊と共に見つかった。
3世紀後半(邪馬台国 台与の時代)には、一辺十数メートル規模の大型の建物
2棟が相次ぎ出現。首長の居館や巨大な倉庫として利用され、他の国との物流拠
点だった可能性があるとしている。

興味深いのはこの場所は大和国、尾張国が琵琶湖を利用して日本海側に出るため
の水運ルートにあたることです。
また詳細は後日お話ししますが、大和の唐子鍵遺跡で作られた近畿型銅鐸や尾張・
東海型の銅鐸の両方が出土する場所でもあります。
魏志倭人伝にある邪馬台国と交戦状態にあった狗奴国は尾張を中心とした東海勢
であるとの説が文献史、考古学で強まっています。
こうした状況を踏まえ、何があったのかを推測してみます。

倭国大乱が近づいてきた2世紀後半、大和国と狗奴国は大陸との交易を独占して
いる北九州・玄界灘勢力に対抗するため、出雲などに通じる日本海側ルートを
協力して開き、貴重な鉄素材や祭器を若狭湾、琵琶湖を使い自国に持って来てい
た。
その中で近江は交通の要衝、鉄器製造の地として繁栄を誇った。
倭国大乱を制し北九州を支配下においた邪馬台国・瀬戸内勢力はしばらくの間
近江を水運、鉄器製造に利用していたが、やがてより進んだ先進技術を持つ北九
州の工房を使うようになった。また当然のことながら日本海側ルートからより便
利な瀬戸内海ルートへ切り替えて、大陸との交易を行うようになった。
狗奴国との協力関係は邪馬台国にとって必要のないものになり、両国の関係は急
速に悪化した。狗奴国にとっては大陸との関係を完全に断たれることになるため、
卑弥呼の晩年近く衝突した。
台与擁立までに狗奴国を制圧した邪馬台国は近江を工房としてではなく、日本海
沿岸国との水運時や東国との物流拠点として利用することにした。

銅鐸の分布から以上のようなことをざっと考えていたのですが、今回の発見でよ
り詳細が見えてきました。

「日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」 彦根市教委発表  滋賀県彦根市教委は17日、市内の「稲部(いなべ)遺跡」(同市稲部、彦富両町)で弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかったと発表した。同時代では他にない規模という。大規模な建物の跡も確認された。当時、鉄製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。

情報源: 滋賀・稲部遺跡:大規模な鉄器工房遺構 「邪馬台国」時代

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