行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣を見てきました

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埼玉県立さきたま史跡博物館にて

埼玉県行田市の稲荷山古墳、5世紀後半の築造で墳丘長120mの前方後円墳です。
1968年の発掘調査で鉄剣とそこに書かれた銘文が発見され大騒ぎとなりまし
た。
訓読
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、タカリの
スクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児
、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ(表)
 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と
為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル大王のシキの宮に在る時、吾、天下を
左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」

辛亥(しんがい、かのとい)の年は60年に一度めぐって来る干支で471年。
ワカタケル大王は日本書紀にある大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)
雄略天皇のことでしょう。
8代にわたり杖刀人(じょうとうじん)の首(警護役のトップ)を務めてきた一
族のヲワケの臣が雄略天皇に仕えていた時この鉄剣を造った。
一族の祖はオホヒコ。
オホヒコと言えば崇神天皇が全国に派遣した四道将軍の一人「大彦命」と見る向
きもあります。
ただ大彦は全国平定のヒーローです。武人の憧れであったでしょう。
日本書紀にある大彦の息子の名前はタケヌナカハワケで、銘文とは違って
いて断定はできません。
もし大彦命であれば5世紀の終わり頃、大王(天皇)は崇神天皇から始まったと
いう伝承が残っていた、そう考えていたことになります。
天皇陵含めて発掘調査が行われると謎も解けるかもしれません。

1873年熊本県玉名郡和水町(たまなぐんなごみまち)にある江田船山古墳か
らも、同じような銘文が彫られた鉄剣が見つかっています。
そこにも銘文がありました。字数は約75字です。
「ワカタケル大王(雄略天皇)の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕
えていた。八月に大鉄釜で丹念に作られためでたい大刀である。この刀を持つ者
は、長寿であって、子孫まで栄えて治めることがうまくいく。 大刀を作ったの
は伊太□(ワ)で、銘文を書いたのが張安である」

宋に使者を送った倭の五王の内「武」は雄略天皇のことと言われますが、
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北
を平ぐること九十五国」と言っています。
この時代(5世紀終わり頃)、九州から北関東までは大王家の影響下に入ったと
見られます。

 

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