帥升(すいしょう)は神武天皇だったのか?

西暦57年に後漢に朝貢して金印を授けられたのは奴国でした。
その50年後、帥升は西暦107年(2世紀初頭)に後漢に朝貢し日本史上、外国史
書に名の残る最初の人物とされます。
その次に現れるのは卑弥呼です。

後漢書によれば
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた

2世紀初頭と言えば先日お話ししましたように、大和の建国に近い時代と見られ
ます。そのために帥升は大和建国の祖、神武天皇ではないかという人もいます。
さてどうでしょうか。
私は結論から言うとその可能性は低いと思います。

下の写真は漢鏡5期(1世紀中頃から後葉)の分布図です。

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 岡村秀典「三角縁神獣鏡の時代」吉川弘文館より一部引用

5期は北九州を中心に瀬戸内、畿内、山陰などにも分布します。
ところがこの前後の4期、6期は北九州の分布は続きますが他の地域では激減し
ます。
どうも5期の時代、北九州・玄界灘勢力は独占していた瀬戸内や日本海の国々の
半島との交易を許したようです。
ところがその前後はピタッと閉じます。

帥升(神武天皇)の時代は漢鏡6期です。瀬戸内海や日本海側ルートを通じての
大和から中国への渡航は極めて難しかったはずです。
160人もの奴隷と思われる人たちや王の正式な使者を乗せてですから、北九州
の国々も見逃すことはないでしょう。
帥升は北九州にあった国の一つの王の可能性が高いと推測します。

北九州のこの閉鎖的な姿勢が2世紀後半の倭国大乱へと繋がっていきます。
この件は後日触れることにします。

詳しくはこちらで 「倭王 ヤマトの源流」斉藤登著 つむぎ書房刊

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