弥生式土器 三浦古美術さんのHPより借用
奈良県桜井市にある纏向遺跡はその姿が明らかになるにつれ、祭器の出土が多い 事、農業をしない地であったこと、高床式の家々が立ち並ぶという所謂庶民の町 ではないということなど、宗教都市とも言える独特な姿が現れてきています。 邪馬台国の最有力候補地となっています。 この都市(集落)はいつ造られたのでしょうか? 最後は4世紀初めであることは分かっています。 突然この場所から人がいなくなりました。 では最初はと言うとはっきりしていませんでした。 卑弥呼を各国が共立したのが倭国大乱後の190年頃であろうとのことから、 「この頃造られたのでは」との考え方が一般的であったかと思います。 2014年に大阪市立大学の岸本直文氏が国立歴史博物館(歴博、千葉県佐倉市) との共同研究により、「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」という 論文を発表されました。 奈良で出土する弥生式土器の年代を炭素14測定法で測りました。 2世紀前半と出ました。 また弥生時代後期には多くの集落が廃絶されています。 その状況も鑑みて纏向集落は2世紀第2四半期にヤマト国の本拠としてその建設 が始まったと結論付けています。 つまり125年から150年の間ということです。 魏志倭人伝によれば、 其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年 その国はもともと男子を王としていた。その状態が続いて7,80年したとこ ろで、倭国は乱れて国々は互いに攻撃し合い年を経た。 120年頃に邪馬台国(ヤマト国)は造られたと言っている訳です。 「物証と供述」が合致し始めたのではないでしょうか。