邪馬台国の王と言えば卑弥呼と台与が知られています。 では2人だったのでしょうか? 所謂「倭国大乱」の後に各国が女王を共立し、その女王が都するところが邪馬 台国であると魏志倭人伝に記されます。 2世紀末の頃です。 その後、魏と倭国との国交、狗奴国との戦争、卑弥呼の死、男子を王としたが 国中が服せず戦乱となり、卑弥呼の一族であった13才の台与を女王としやっ と国が定まりました。 ここで出てくる一人の男王は倭国をまとめる事が出来ませんでしたので、倭王 とは呼べません。 魏志倭人伝に出てくる倭王は卑弥呼、台与の2人です。 しかし著者の陳寿は297年に世を去っています。 奈良県桜井市の纏向遺跡を邪馬台国とすればその後4世紀(300年代)初めまで この都市は続き、そして消滅します。 台与が最後の女王だったという証拠はありません。 考古学者である白石太一郎氏によれば、天理市にある西殿塚古墳が台与の墓であ る蓋然性が高いとされます。 築造年代は3世紀後半から4世紀初めです。 広瀬和雄氏は3世紀後半と見ておられます。 もし3世紀後半であるなら台与は40から50歳くらいで亡くなった可能性が出 てきます。 王不在のまま数十年経過するとは思えませんので、もう一人倭王が存在したかも 知れません。 倭王の姿の変遷を追いかける中、浮かんできた疑問です。 先入観、固定観念で邪馬台国にいた倭王は2人だと思い込んでいる危険性を感じ ました。