
日本書紀の在位期間と大きな出来事を合わせて作った神功皇后辺りの年表の一部
です。因みにこれを古い方へ辿っていくと神武天皇は紀元前660年に即位したこと
になります。
神功皇后紀では魏志倭人伝と同じ年代を使い邪馬台国の時代と重ねていることは
先日の 神功皇后と魏志倭人伝 で紹介した通りです。
神功皇后の時代は動かせませんので基準点として使えます。
日本書紀としては神功皇后より古い時代はいくらでも古くは書けますが、応神天
皇以後は伝説の時代から人の世に変わっていきますので、あまり自由はありませ
ん。
幾つか気になる点が出てきました。
・考古学は現代の方が進んでいると思われます。
纏向遺跡は300年代初めに突然人がいなくなるまで繁栄します。記紀編纂者は
この事実を知らなかったのでは?
そのために266年の台与と晋の関係を最後に応神天皇をすぐに登場させた。
この年表だと台与は20代後半で亡くなっていることになります。(その計算
方法の詳細は別の機会に)
可能性はゼロではないですが、少々考えにくいのです。
・異様に長い仁徳天皇の在位期間
天皇(大王)制の始まりは300年代(4世紀)後半という説が有力です。
とすれば最初に実在した天皇は仁徳天皇となります。
応神天皇の時代はまだ宗教国家であり中央集権体制、大王制とは呼べません。
仁徳天皇が実在する最初の天皇と言うよりは、大王(天皇)制が動き出した頃
の全期間を仁徳が在位していた事にしたという方が適切だと思います。
複数の人物(何人かの大王)を一人の登場人物(仁徳)として書くという記紀
の得意とする記述です。
・倭の五王とはだれか?
これも長く続く議論です。
400年代に中国へ使者を送った人物である讃、珍、済、興、武は誰か。
この年表から見ると仁徳天皇は対象外となります。
興、武は安康、雄略天皇で決定のようですので、あとの3人をどう見るか。
記紀の記述方法の特徴、血筋、年代からこのパズルは解くべきです。
編集が終わった後の課題の一つにします。
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