明治14年 1円紙幣 紙幣の日本最初の肖像は神功皇后でした(七十七銀行HPより) 日本書紀では神功皇后の時代を邪馬台国の時代として描いています。 皇后紀本文にて 摂政39年 魏志倭人伝によると倭の女王が洛陽に使者を派遣した。この年は己未 (つちのとひつじ)でありかつ景初3年である。(西暦239年) 40年 魏氏に云う。魏は倭国へ詔書、印綬を贈った。 中略 66年 倭の女王が貢献した。(西暦266年) はっきりと書かれています。 しかし神功皇后は卑弥呼だという人はあまりいません。少数派です。 これは最後の66年の記事は台与の時代であり、卑弥呼と台与の二人の時代が 神功皇后紀には書かれているからでしょう。 「実際にいた人物=記紀の登場人物」としなければならないという先入観が あるために「神功皇后=邪馬台国の女王」説を支持する人は少ないのでしょう。 では、倭健(やまとたける)はどうでしょうか。 征西から大和へ戻り直ぐに東征を命じられます。 その時に「父上はろくに軍勢もくれずに直ちに東へ赴けとは。私など死ねばいい と思っておられるのだ」と悲観します。 つまり軍のリーダーです。 その事績の大きさから複数の人物が投影されていると思われます。 このように記紀の企画・構想を理解するには「事実上の一人=登場人物一人」の 先入観を捨てなければなりません。 そうしてみると神功皇后の章は邪馬台国の時代を投影し、卑弥呼と台与を描いた と読むことが出来ます。 神功皇后は架空の人物とするのは最早通説です。 記紀は人を書いているのではなく、その時代を描き出しているのです。 少なくとも古事記の1,2巻はそう言えます。 明日から最終校正に入ることになりました。 少し沈黙の期間が出そうですが、フェースブックの知り合いの方から能登の万行 遺跡の現地情報をいただきました。 面白い遺跡ですので、近いうちにご紹介します。