魏志倭人伝の続き 「棺あって槨なし」

前回に続いて「魏志倭人伝」の続きです。
カタチは魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の墓に似ているが、時代が違うと言われていた
奈良県桜井市にある箸墓古墳。近年、築造年代が卑弥呼が死亡したされる3世紀前半に
近いとの説が出てきています。
まだ決定されたとの声は聞こえてきません。
この年代特定は考古学者に任せるとして、魏志倭人伝にある卑弥呼の墓は箸墓古墳と
似ていると思いますか?

魏志倭人伝には、
「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」 卑弥呼が死んだ時、直径百余歩の塚を造った
とあります。
直径百余歩はだいたい150mとされます。
箸墓古墳の規模を見ると墳長つまり全体の長さおよそ278メートル、そのうち後円部は
径約150メートル、高さ約30メートルです。
前方後円墳ですので、円墳のところだけ見ると確かに似ているようです。
しかし前方部はどこにいったのでしょうか?
もう一つの問題を検討してから考えてみます。

魏志倭人伝の記述は箸墓のことではないとする根拠の一つに上げられるのが「棺(か
ん)あって槨(かく)なし」という次の記述です。
「其死有棺無槨封土作冢」
(倭人の)その葬儀において「棺」はあるが、「槨」はない。
 土を盛って「冢」(つか)をつくる
棺はひつぎです。槨はその棺を保護するもの、外枠みたいなものと考えて頂ければ
いいかと思います。「棺あって槨なし」というのは北九州の墳墓に見られる慣習です。
畿内では棺も槨もあります。
そのために卑弥呼の墓は北九州にあったはずだとの意見があります。

これには私は疑問を持ちます。
北九州には多くの人が頻度高く大陸から訪ねてきていました。
訪問者の総数は、人数×頻度×期間であり、鉄を独占輸入していた北九州はダントツで
した。一方、奈良盆地は遥か彼方の地、実際に行ったことがある外国人はそれに比べ
ればかなり少なかったはずです。
陳寿が魏志倭人伝を書いた時は、台与が女王の時代。卑弥呼という同じ王族の墓を見
ることは極めて困難。記述も女王の墓について「有棺無槨」と言っているのではなく、
倭人の習俗として記されています。
つまり確率から考えれば北九州の墓を見て倭国ではこうなんだと判断し、畿内のもの
は実際に見ることなく書かれたとするのが合理的でしょう。
邪馬台国が北九州・畿内どちらにあってもいいのですが、現役の王族のものではなく
たまたま見る機会があった墓を覗いた人の記録を陳寿は採用したのでしょう。
私たちも上海で見たものを帰ってきてから「中国ってこうなんだよ」と話します。
北京は違っていたとしても。まぁやりがちですよね。
陳寿が正解であったのは、その記述を女王の墓の説明ではなく、倭人の習俗として記し
たことです。
邪馬台国畿内説を裏付けるものでは勿論ありませんが、これを以て北九州にあったと
することも危険なことだと考えます。

では最初の問題、前方後円墳の円墳のことしか書かないということがあり得るので
しょうか。多くの記録から陳寿は倭人伝を表しました。
陳寿「女王の墓の大きさが270m!! 
 こんな小さな島国でそんな大きな墓を造れるわけないだろ。
 始皇帝の驪山陵(りざんりょう)だって350mほどと聞いているのに。
 どこに埋葬されたんだ?」
助手「円墳の部分のようです。150m位のようです」
陳寿「うーむ、これでも大き過ぎるが、まぁしょうがない。 
 径百余歩としておこう」

勝手な想像です。
冷静な判断と勝手な想像、そのバランスが難しい。

 

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