邪馬台国と絹


蚕_R

魏志倭人伝には「邪馬台国」という名前は1回しか出てきません。
「南至邪馬壹國女王之所都」
南に行くと邪馬台国に着く 女王が都を置いている所である
この1か所だけです。
倭国は3回、女王国は5回出てきます。
また30ヵ国ほどの国々が女王卑弥呼を共立し統治していたことも記されています。

本題です。
古墳時代に入るまで畿内では養蚕が行われておらず、北九州を中心に絹が作られてい
ました。
倭人伝には養蚕をおこなっていたことや、魏への二度めに派遣された使者が献じた
品物のなかに、「絹」があったと出ています。
そのために、これが邪馬台国は北九州にあったことを示す証拠の一つとする説があり
ます。

さて、私はここに疑問を持ちました。
ここで考えなくてはいけないのは倭国のことを言っているのか、邪馬台国を指してい
るのかです。
今EUの大統領はポーランドの人です。もし彼が天皇陛下に「これは我がEUの産物
です」として、フランス産のワインを贈ったとしたらどうでしょう。
何かおかしいでしょうか?
女王国のトップがもし畿内にいて倭国からの贈り物として「絹」を贈って何も問題は
ないはずです。また養蚕の記述についても、「婦人は束ねた髪をまとめて、単衣の中
央から頭を出して着ている」など倭人の風俗の紹介のところで述べています。
よって「絹」の記述が邪馬台国北九州説を示すものとは断定できないと考えます。

北九州には多くの人々が大陸から頻度高くやって来ていました。
奈良盆地にまで行く人は少なかったはずです。
風俗慣習の記述が九州中心のものになるのは仕方のない事です。
魏志邪馬台国伝ではなく、魏志倭人伝であることを忘れてはいけないのです。
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