纏向遺跡から出土した木製仮面
写真は「桜井市纏向学研究センター」HPより借用
邪馬台国が存在した場所について、江戸時代より論争が続いています。
まだ最終的な結論は出ていません。
但し考古学学会では「畿内説」支持に傾いているようです。
理由のいくつかの概略を紹介します。
- 一つは北九州の墳墓や集落遺跡の優位性は弥生時代で終わること。古墳の築造開始年代が3世紀前半に早まる事が解明され、この時代に近畿・中国地方に大規模な古墳が多く造られ始めます。吉野ケ里遺跡は年代的に早すぎるため、北九州には今のところ有力な集落遺跡が存在しないが、奈良県では纏向遺跡という大規模な集落が発見され、王宮クラスの建造物や上の写真のような祭祀で使われたと思われる祭器等の出土が続いています。魏志倭人伝に書かれる巫女が治める宗教国家の表記と共通性が認められます。
- それまで北九州に多く分布していた「中国鏡」が3世紀に入ると突然「畿内」を中心として中国鏡の一つ「画文体神獣鏡」が分布し始めます。これが意味することは3世紀に邪馬台国連合体制が成立した際に国の勢力図、支配体制に大きな変化が起き、大陸からの先進文物を独占していた北九州から、畿内を中心とした勢力へとこの支配権が移ったと考えられること。
- この頃「土器」の動きにも変化が現れ、吉備や大和の土器が西の北九州へ動いていること。支配体制の変化と合わせて見れば北九州を支配下に置いた大和を中心とした勢力が、多くの人々を統治のために北九州へ移動させたと考えられること。
- 箸墓古墳からの出土物の炭素測定なども行われていますが、測定精度など問題もあり確定とする決定的な証拠とはなっていません。ただし上記のような状況が日本考古学の趨勢を大和に傾かせているようです。
古事記を紐解く立場から言えば最も重要なのは、記紀編纂者たちは邪馬台国をどう捉
え、どこにあったと考え記紀を描いたかです。
その視点でいえば明らかに「大和」です。
古事記に邪馬台国の記述がないのは一つの謎だという人もいますがそんなことはあり
ません。
しっかりと描かれています。
彼らは中国の史書に精通していました。神功皇后紀では史書を引用し年代まで明かし
て皇后の時代が「邪馬台国」の時代であることを明らかにしています。(詳細は後日)
邪馬台国は中国史書では「邪馬壹國」、「邪馬臺国」と表記されます。
私たちは「やまたいこく」と読みますが、当時の中国人が倭国からやって来た人物の
発音を聞いてこれらの文字を当てました。
古代中国語ではどう発音したのでしょうか。
「ヤマト」とする説が有力です。
記紀編纂者たちは邪馬台国は大和であると認識して、企画・構想を作りました。
これを前提に「古代史への旅」を進めようと思います。
誤解が無いように申し上げておきますが、私も歴史的真実を知りたいと思っています。
これからの考古学の進展による解明を期待しています。
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