「魏志倭人伝」には邪馬台国までの経路が書かれています。
その通りに陸上、水路を辿ると南方の海の中に出てしまいます。
なぜこのような表記になってしまったのか。
以前より魏志倭人伝を解釈するには中国史の全体像を理解する必要があると言われてきまし
た。ただ「言うは易し・・・」で簡単に出来るものではありません。
ところが参考図書でも紹介しました「魏志倭人伝の謎を解く」中公新書で中国古代史の
専門家で大東文化大学教授の渡邉儀浩氏が興味深い説を展開されました。
まず距離の問題です。呉に朝貢する国が遠方であればあるほど、それを招いた執政官の徳は
高い、いい仕事をしたことになる。
徳が高いことを示すために、蜀の西にある「大月氏国」は一万七千里ありますので邪馬台国も
洛陽から同じように一万七千里の彼方にある必要があった。
方位について。
魏は蜀への押さえとして、蜀の西方にあるクナーシャ朝のヴァースデーヴァ王に「親魏大月氏
王」を与えていた。そこで呉への押えを期待して「親魏倭王」を倭国の卑弥呼に与えた。
西に蜀に対して大月氏国があり、対呉国のために邪馬台国は呉の東になければならなかった
のです。
地図は「三国志」サイトよりお借りしました http://blog.livedoor.jp/gingerale_19/archives/cat_782466.html
陳寿は多くの資料・記録を推敲し魏志倭人伝を記しました。
北九州まではありありとその風景を書き留めています。ところが北九州から出るとその記述は
具体性を失います。
距離と方位はそうあってほしい、そうあるべきだとのこの理念に基づいて作成されたために
事実とは異なってしまったということです。
魏志倭人伝をいくら一生懸命に読んでも「邪馬台国」に着くことは出来ません。
考古学、その後の歴史の変遷から推定するしかないようです。
尚、魏より卑弥呼に送られた「親魏倭王」の金印ですが、これは王が死ぬと返すものだそう
です。
つまりどこかの古墳からこの金印が出てきた場合、まずレプリカ疑惑が持ち上がるでしょう。
持っているはずのないものですので。
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