「倭王 ヤマトの源流」つむぎ書房より出版しました

2021年7月12日に出版しました。

「倭王 ヤマトの源流」斉藤登著 つむぎ出版

皇位を継ぐ者は父方の血筋で辿れば神武天皇に行き着く男系でかつ男子のみとされています。そのため後継候補者がたいへん少なくなっており、こうした男系天皇という伝統を守るべきなのか、いまこそ女系天皇を認めるべき時なのか。大きな関心を呼びメディアでもしばしば議論が取り上げられています。
ただ幾つかの意見・主張を聞いていると疑問がでてきます。
●事実はどうであったのか?
そもそも神武天皇は実在したのか?それは分からないというのが定説のはずだが、血筋の話しになると途端に間違いなく「存在した」として話しが進むのはご都合主義ではないか?
そこで多数ある古墳、その中でも大王墓に着目し、倭国の王統はいつから始まるのか、ヤマト建国者存在の有無、それは誰だったのかを明らかにします。
●根本的な疑問「なぜ男系?」
これは難問です。しかしこの答えがなければこの議論は終わらないはずです。
万世一系とは、古事記・日本書紀の編纂時代の大きな政治課題である「律令制」の成功のために必要な概念です。律令制には唯一特別な存在、絶対的な存在とされる人物がなくてはなりません。その為に神に繋がる正当な人物として「天皇」が描かれました。また苛烈な皇位継承争いもありました。
こうした天皇像に反映されるその時代の要請を紐解くことで謎を究明していきます。

「倭王 ヤマトの源流」斉藤登著 つむぎ書房刊

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「宗像・沖ノ島」世界遺産に登録勧告 8件中4件は除外  :日本経済新聞

沖ノ島の祭祀は三輪山祭祀と共に4世紀後半から形式が整い大規模化し始めます。
一地域ではなく国家的祭祀になったとみられます。
つまり倭国が中央集権体制、大王(天皇)制を整え外に向かい始めた時代とも言えま
す。
歴史資料がなく「空白の4世紀」とも呼ばれる時代の物証がここにあります。

 文化庁は5日、世界文化遺産への登録を目指す古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関が登録を求める勧告をしたと発表した。構成資産の

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写真展を開催中です。

善光寺とこの寺を呼び寄せた水内の地を紹介しています。

善光寺 ー祈りー
善光寺は都ではなくこうした山に囲まれた地で、なぜこれほどの大寺として現れた
のでしょうか?
そこに思いを馳せていただければと思います。
私は貧乏人の自宅の一隅から始まったこの寺の庶民性。
水子観音など人々から上がってきたであろう祈りを受け止め、支えてきた仏教とい
う枠にとらわれない柔軟性。
また京都の大寺では決して見ないであろう「むじな地蔵」などを平気で祀り、24時
間365日人々が祈ることができる開放性といった面を感じました。

水内の自然
善光寺は今の場所に建立される前は飯田にありました。
なぜここに移って来たのか?
水内は信仰(自然信仰です)に篤い地であり、長野盆地は麻の取引で潤っており、信
仰と経済の基盤があったためと言われています。
その自然の中に神を見る信仰がこの地で育まれてきた訳など、その一端を感じて頂け
ればと思います。

「善光寺 -祈りー」

会期:2017年5月2日(火)-7日(日) 12:00-19:00(最終日 16時)
会場:Roonee247 fine arts / Room1
  東京都中央区日本橋小伝馬町17-9 佐藤ビルディング4F
 カラー、小全紙20枚の予定です
Room2で「水内の自然」を紹介します。
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邪馬台国東遷説を考える

未だに「邪馬台国東遷説」は根強い人気があります。
東遷説とは簡単に言えば、
「北部九州にあった邪馬台国は卑弥呼の時代、若しくは台与に代わる時に今の大和
に遷ってきた」というものです。
この説は考古学からほぼ完全に否定されています。
土器の動きはむしろ逆であり、大和から北部九州へと多くの人々が移り住んだこと
を示しています。
「邪馬台国からヤマト王権へ」 奈良大ブックレット 白石 太一郎他 に詳しく載
っていますので参考にしてください。
では、なぜ未だにこの東遷説に人気があるのでしょうか。
一つは邪馬台国がどこにあるか分からなかった時代が長く続いたことにあります。
江戸時代から続く議論です。
考古学者の議論を聞いていて畿内説にほぼ決まったと言えるのは、2009年に奈良県
桜井市の巻向駅のすぐ近くで卑弥呼の王宮ではないかとされる、日本最大の大型建
物群の跡が発見されたころからです。
まだまだその歴史は新しいものです。
多くの人たちの心の中に「邪馬台国の場所は謎、若しくは北部九州にあった」とす
る図式が染みついていると言っていいでしょう。
またもう一つの固定観念、先入観があります。
神武天皇の登場は卑弥呼の後、つまり先に邪馬台国がありその後大和王権が成立し
たいうものです。
これは日本人の常識とも言えるほどのものです。
事実は違います。
邪馬台(ヤマトと発音)国が大和であったことを認識すれば、所謂「魏志倭人伝」
にある邪馬台国とは大和国のある時代を中国から望遠鏡で覗いて描いたものである
ことが理解できます。
ここは重要なポイントですので、折に触れ説明するつもりです。
もう一つ、見逃せないのは文献史研究です。
資料研究は大きな力となりますが、その力を発揮するのは歴史資料がほとんどない
「空白の4世紀」を過ぎた後、5世紀以後の歴史研究においてでしょう。
3世紀辺りの文献史研究のあり方をみれば、4~500年以上経って書かれた文献
を基に細かい推理を重ね、地名という変化するものを頼りに仮説を組み上げていく
説がほとんどです。
その結果として邪馬台国の東遷説をはじめ、物部氏の祖も北部九州から東遷してき
たという説も浮上しています。
私は古代史(4世紀以前)研究においては、考古学(物証)を第一に捉え、次に文
献史(供述)を取り上げるべきと考えています。
考古学から否定されている一つの国が東遷してきたという幻想は、そろそろ捨て去
る時です。

詳しくはこちらを参照ください。アマゾンへのリンクを張っておきます。

「倭王 ヤマトの源流」斉藤登著 つむぎ書房刊
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鬼道と天を祀る祭祀

魏志倭人伝にある「鬼道に事(つか)えよく衆を惑わす」とはどういう意味でしょう
か。
近年、東アジアにおける倭国の位置づけといった研究の進展により、明らかになっ
てきたことがありますので紹介します。
また後世、記紀編纂時に現れた天を祀る「天皇祭祀」との違いを比較すると分かり
易いので、これらを[古代史シンポジウム「発見・検証・日本の古代」編集委員会,
 2016/7/25]より磯前順一氏の指摘からまとめてみます。

「鬼道」とは何か。
後漢書で「鬼道」を「鬼人の道」と言い換えてる。「鬼」は死んだ人の魂、「神」
はその通りに「神」、「道」とは祀る方法であり、「鬼道」とは鬼人の祭祀、死者
の霊魂や、海や山の神々を祀るものである。
片や天の祭祀、天の神の代表は天照大神であり、天皇はその末裔で天に通じる存在
である。つまり現人神として天を祀り、また祀られる存在である。よって万世一系
の概念が重要性を帯びてくる。

これらの視点、指摘は極めて注目すべきことです。
卑弥呼はなぜ記紀にそのまま登場しないのか。
一時、熱烈な仏教崇拝に走り君臣統合の論理としても利用したにも関わらず、なぜ
そのまま仏教国とならなかったのか。
従来の疑問を解く鍵となります。

まず卑弥呼を隠し通した理由ですが、記紀編纂者たちは「鬼道」を理解していたの
でしょう。
卑弥呼は現人神ではなく、神の声を聞く巫女的な存在であり、2~3世紀において
倭国に天の祭祀は存在していなかった。
これは天に繋がる万世一系の概念から外れるものですので、律令制を目指す記紀編
纂時代においては排除せざるを得なかったと見られます。
律令制を国として実施したのは日本だけです。
なぜ日本は出来たのか。
仏教、大乗仏教は「一切衆生」を唱えます。つまり全ての人は平等であり、全ての
人は救われる訳です。
ところが律令制に必要な思想は「公地公民」でした。全ての土地、民は天皇に属す
る。天皇だけは特別な存在であるということ。
仏教とは相反するものを必要としました。

この考え方を日本に根付かせるため、仏教を全て採用するのではなく記紀を編纂し
「万世一系」、「現人神」の考え方を表したのです。 

ほぼ同じ時代の歌人 柿本人麻呂の歌にもこの思想はよく表れています。

大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬(いお)りせるかも

「倭王 ヤマトの源流」斉藤登著 つむぎ書房刊

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神道は宗教なのか?

 東北大震災から1年後の陸前高田市(2012年3月11日)

毎年3月11日を迎えると思うことがあります。
自然信仰を基に先祖崇拝を合わせて成り立ったものが神道であると言われます。
神道は宗教なのでしょうか?
司馬遼太郎が「街道をゆく」で言うように「かなり特異なものである」ことは間違
いないでしょう。
宗教の三大要素である
1.教義・教え
2.教典(教えが書いてあるもの)
3.布教
が全てありません。
神道は知識といった頭で理解するものではなく、自然の美しさを見て感動し、災
害を前に畏れ、収穫に感謝するという直感的なもの、心の奥底にあるものの表れ
だと思うのです。
宗教とは一般的に言われるように「人間の力を超えた存在を中心とする観念、その観念体系に
もとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団」。
信仰はその観念により動かされる心的な動き、また行動を指すもの。
そうした視点から見れば、神道は宗教であり、信仰であると考えます。
目に見える教義はありませんが、「お天道様が見ているから」「お米は作ってくれ
た人に感謝して、一粒も残さずに」「人様に迷惑を掛けないように」など民族とし
て伝えてきたものがあります。

2011年3月11日を境にそれまでよく言われてきた「日本人は信仰心がない」
「日本は無宗教の国である」といった言葉は聞かれなくなりました。
日本が伝えてきたこの心を大切にしていきたいと思います。

 

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東京国立博物館 – 展示 日本の考古・特別展(平成館) 須恵器の展開 作品リスト

東京国立博物館で2017年3/7(火)より6/11(日)まで、平成館考古展示室で、登
場から奈良時代までの須恵器を紹介する特集「須恵器の展開」が開催されます。
須恵器は日本に5世紀後半に入ってきました。
この時から被葬者に食べ物が供えられるようになりました。
それまで一体であった「肉体」と「魂」が分かれ始めたのです。
この後、半世紀ほど経ち仏教が渡って来ます。
これらの二つの概念・思想が日本の神々の姿を変えました。
日本の歴史上大きな役割を担った須恵器を見るいい機会ですので、ぜひご覧になる
ことをお勧めします。

東京国立博物館-トーハク-の公式サイトです。展示・催し物の情報や来館案内、名品ギャラリーなどをご覧いただけます。

情報源: 東京国立博物館 – 展示 日本の考古・特別展(平成館) 須恵器の展開 作品リスト

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大和建国へ(7) 磐余に築かれた柄鏡式前方後円墳が招いた誤解

記紀において神武天皇は「カムヤマトイワレビコ」と呼ばれます。
イワレは奈良県の桜井市辺りの古称とされます。
下図は大和の大王墓の分布です。

   大和大王墓の分布

考古学は記紀編纂の時代よりも現代の方が進んでいます。これらの大規模な古墳を
見て、記紀編纂者たちは柄鏡型の前方後円墳である桜井茶臼山、メスリ山古墳の方
が古いと考えたのではないか。

柄鏡 宮崎県立総合博物館蔵 「柄鏡とは柄のついた円形の銅鏡で、室町時代以降に多く作られました」

柄鏡型は周濠部を持ちません。周濠部を持つ三味線のバチのように前方部が開いて
いく「バチ型前方後円墳」をより新しいデザインを取り入れたものと考えた。
その為に大和建国の地は磐余(イワレ)であると認識、つまり誤解した。
そう考えれば神武東征の物語が宇陀から盆地に入り、この南東部を主体に展開した
理由も納得出来ます。
大和建国の時代、弥生時代に倭国は文字を持っていません。
一部には既に文字があり、かなり自由に使えたという説もあります。事実、卑弥呼
は魏へ使者を出しています。
しかしこれは限定された場で使われたと見るべきでしょう。
古事記を編纂した太安万侶も漢字を使って日本語の「意」を表すか「音」を表すか
に大変苦労をしたと言っています。
弥生時代に一部文字が使われたとしても、それは中国語でしょう。日本語を表記す
ることは出来なかったはずです。
もし一部の研究者が言うようにかなり自由に使えたとするならば、なぜ日本から、
特に纏向から出土する卜骨に中国のもののように占いの内容が文字で書かれていな
いのか。
おかしなことです。
国家の最重要案件であり、神に問う占いです。
この時に文字を使っていないという事は、それほど自由に文字を使うことは出来な
かったという証しでしょう。
つまり神武東征伝承など文字が無ければとても残らない詳細な話しは伝わっていな
かった。
記紀編纂時代に中国史書、墳墓など特に大王墓、各一族に伝わる大まかな伝承話し
などを参考に構想を作り、古事記、日本書紀を表したということです。

後日詳しく検討しますが日高正晴氏が「古代日向の国」(NHKブックス刊)で示す
ように、天孫降臨の地、つまり皇家の出自は「襲(そ)」という南九州の地にあっ
たという根本的伝承があった。
そこを基底として記紀が生まれてきたようです。

崇神天皇の世では全国平定まで一気に進む強大な国となったと記し、バチ型の大王
墓が展開される三輪山周辺へと舞台を移しました。
渋谷向井山古墳築造の時代、大和は祭祀者から政治指導者への国へと変わり、中央
集権体制が固まり始めたことにより、次の飛躍の時を迎えたようです。

また日向を見れば柄鏡型前方後円墳があり、建国の祖の出自と磐余地域が記紀編纂
者の頭の中で見事に繋ったのでしょう。
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大和建国へ(6) 大和の大王墓の系列は政治体制の変化を表すか?

邪馬台国は宗教国家でした。大和の中央集権体制へ変わっていくためには、3世紀
から4世紀の早い頃に政治指導者をトップとする国に転換していく必要があります。
どこかにその痕跡はないものかと長いこと、探していました。
まだ決定ではないのですが、もしかすると大和の大王墓の系列がそれを表すかも知
れない可能性が見えてきました。
考古学者の間でも議論が続いているものですので、もう少し研究の進展を待つ必要
があるのですが、ご紹介します。

下の図は大王墓の系列を示したものです。
箸墓古墳はご存知の通り、卑弥呼の墓とされる最有力候補です。
西殿塚古墳は台与のものとして注目されています。
他にも大和には多くの古墳が存在します。ところがどれが大王墓であり、どういう
系列なのかは研究者により意見が分かれます。

     大王墓系列案 [千賀久, 2008]より引用・加筆

1案はこれらの大王墓を一系列として理解するものです。白石太一郎氏をはじめ多
くの研究者に支持されている主流の考え方と言えます。
2案は古墳研究の第一人者とも言える広瀬和雄氏が提唱するもので、茶臼山・メス
リ山古墳は大王墓ではなく、傍系の人物のものとします。この2つの古墳は前方後
円墳なのですが、他の古墳とは違い「柄鏡型」なのです。
他の前方後円墳の前方部は先が開く「バチ型」であり、周濠部を持ちます。
では、何をもって大王墓とするのでしょうか。[千賀久, 2008]より引用します。

「同時期の古墳のなかで圧倒的な規模をもつことと、墳丘規模が劣る場合でも
『新しい企画』を実現させ、以降の大王墓に影響を与えた画期的な古墳も加える」
とされます。

つまり研究者の見解の違いは「画期的であるか、また後の古墳に影響を与えたか」
の見解の相違とも言えます。
3案は石野博信氏が提唱し始めたもので、大型古墳の系列は一つではないとするも
のです。この古墳の並行関係は、それぞれの古墳の被葬者が大王の機能を分担して
おり、そこから連想できるのは司祭的な性格の王と政治・軍事的な性格の王との分
担ではないかというものです。
この考え方は「歴史の流れ」から当時の大和国の政治体制を読み解く際に、たいへ
ん重要な意味を持ちます。

    大王墓の築造順と年代 [千賀久, 2008]より引用・修正

千賀久氏の見解を前出の本「ヤマトの王墓」から紹介します。
西殿塚古墳が築造されると同時期に茶臼山古墳が企画された。茶臼山の選地は東国
への交通に便利が良い場所であり、対東国政策を表している。
(私の見解は後述します)
次にメスリ山が造られ、行燈山古墳の築造後にこれら2つの系列が統合され、古墳
時代前期の最大規模300mを超える渋谷向山古墳が造られた。
これは王権の安定期を迎えたためであろうとします。

千賀氏は対東国政策のために茶臼山、メスリ山古墳が磐余(いわれ)の地に築かれた
とします。その役割もあったかも知れません。宇陀から名張に抜けるには便利な地
です。
ただこの時代、台与を立てる前に尾張国との決着は付いており、大和においてはも
っと大きな課題がありました。
それは宗教者をトップとした国から政治指導者への政治体制への転換です。
政治指導者が決めた事項を神に問うたら「否」と言われれば進めることが出来ませ
ん。どこかの時点で中央集権体制へと変わっていくこと。原始的な体制であっても
宗教国家からの脱却こそ、大和の最重要課題であったはずです。

前提知識として留意したい項目があります。
・ 魏志倭人伝において卑弥呼の時は各国が共立したとありますが、台与の時は「立
  てた」と記される事
・ 同じく魏志倭人伝には卑弥呼、台与の名前のみが出てくるが、邪馬台国の祭祀者
  はこの二人とは限らないこと。3人目がいたかも知れません
・ 纏向は4世紀の初めに突如消滅する、急に人がいなくなること
・ 茶臼山、メスリ山古墳からの出土品は、盗掘されていたために全容は見えないが
  武器類が目立ち始める事
・ 中央集権化が進んだのは、三輪山、沖ノ島祭祀の国家が始まった4世紀後半と見
  られる

この視点で上の図を読んでみます。
卑弥呼の死後、国が乱れたがこの時は大和の力、武を諸国に見せる付ける機会でも
あった。その目的を達し、大和を首都とした連合体制が再び築かれることとなった。
ただ宗教者である「台与」が倭国のトップではあったが、卑弥呼の時代に比べれば
大和の政治指導者の力が大きく影響するものとなっていた。
政治指導者の墓も大王墓クラスものが造られるようになった。
台与の在位期間は思いのほか短期間で終わってしまった。卑弥呼の60年の治世の
おおよそ半分の期間であった。台与の次に行燈山古墳に埋葬される次の祭祀者(女
性とは限らない)を立てたが、政治指導者の力はより強いものとなっていた。
4世紀になりしばらくすると、宗教都市としての纏向の役目も終わり、次の都への
遷都が行われた。遂に政治指導者が国のトップとなり、安定王権が大和に誕生した。
この王権を足掛かりに、中央集権体制が強化され全国への影響力もより強いものに
なっていった。

最後に思い出していただきたいのは、西都原古墳群81号墓です。西都原の中でも
最も古い古墳の一つで、柄鏡型前方後円墳が造られています。築造年代は3世紀半
ばとも言われています。
大和の茶臼山古墳よりも古いものです。ルーツはやはり日向にあったのか?

次回はこの柄鏡型前方後円墳の日向との繋がり、またこの墳墓が招いた記紀編纂者
の誤解について考えてみます。

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尾張との決定的な対立と大和連合体制の崩壊

魏氏倭人伝にある狗奴国は尾張国及び周辺地域のことという説は先に紹介した通り
です。
大和、尾張は卑弥呼の晩年近くに対立しました。

魏志倭人伝を見ると、

倭の女王・卑弥呼は、狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)と素(もと)より不和な
り。倭、載斯(さし)・烏越(うお)らを遣わして郡に詣(いた)り、送って、相攻撃
する状(さま)を説く。
郡太守は塞曹掾史張政(さいそうえんしちょうせい)等を遣わし、詔書(こうしょ)
・黄幢(こうどう)*を齎(もたら)し難升米(なしめ)に拝仮(はいか)せしめ、激を
為(つく)りてこれを告諭す。 [松尾光, 2014]より引用

*:魏の正当な軍事行動を示す、柄に紐を付けて吊るした黄色い垂れ旗のこと

この後、卑弥呼は死し、男王を立てるが国中服さず互いに誅殺し、当時千余人を殺
した。
卑弥呼の一族である13才の台与を立て、やっと国が治まった。
と記されます。

意味もなく使者を送ることはしませんので、倭から魏へ使者を送ったのは支援を
求めてのことでしょう。尾張との戦いはその後、広がり国が乱れました。台与を擁
立するまで続いたとされます。
どうも不可解な点がありますので、順を追って見て行きます。

魏志倭人伝によれば尾張とは卑弥呼を共立すると間もなく、対立し始めたようです。
前述しましたように物部氏の祖を追いかけることで、1世紀末葉頃まで大型銅鐸の
生産の様子からこの地域は協調関係にあったことが分かりました。
その後、瀬戸内海ルートが開かれ大陸と繋がったために、尾張国は河内湖(大阪湾)
へ西進を始め戦乱を引き起こしました。

その後半世紀以上経った倭国大乱時はどうだったのでしょう。
瀬戸内海諸国(特に東部地域)と大和は北部九州へ討って出るために、東国対策を
しておく必要があったはずです。
西へ攻め行くためには東から、背後から尾張に攻撃されることだけは避けなければ
なりません。
そのために瀬戸内海・大和各国は北部九州を攻め落とし、大陸との交易が可能とな
った際には尾張にもその分配を約束して、和平を取り付けたのではないか。
尾張国はその約束を信頼し、大和を攻めることはなかった。
もし攻め入っていたら、広大な土地を持ち強大な戦力を持っていた国ですので、大
乱の結果は違っていた可能性があります。
しかし遺跡等からの出土品を見れば尾張の期待とは違い、大和まで銅鏡・鉄器は渡
って来ますが、尾張へはほとんど渡らなかった。
これには尾張も怒ります。
卑弥呼を各国が共立し連合体制が出来た後、尾張には鉄も銅鏡も渡って来ません。
時が経てば経つほど尾張からの「約束を守れ」という要求は益々強くなっていった
はずです。遂には戦争状態となりました。
歴史の流れを見れば、この戦いの結果は大和側の勝利に終わりました。

不可解な点とは、なぜ連合体制が崩れたのかです。
卑弥呼共立後、連合体制が終わり再び国乱れるまで半世紀以上の期間があります。
それまでに尾張は戦いを仕掛けていました。大和連合と尾張国の全面対決となるま
での時間でしょうか?
少々掛かり過ぎているのではないか?
大和(連合)は尾張国との戦いで魏に支援を求めるなど、あまりにのんびりとした
悠長な姿勢を見せています。
箸墓古墳の造りを見れば、大和連合体制は日本海側諸国を含む西日本の大半を含む
勢力圏です。倭国大乱で傷ついたとは言え時と共に回復していたはずです。
なぜ遠い魏に時間を掛けて使者を送ったのか。
どうも魏にまで支援を頼んだのは、諸国へその影響力を見せ付けるためではなかっ
たか。
魏との強い繋がりを見せるには絶好の機会でした。
尾張との戦いが連合体制を壊したのであれば、もっと早い時期に崩れ去っている
べきでしょう。
連合体制の崩壊は大和側の作為を感じるのです。

満を持して大和・瀬戸内海勢力は連合体制を破壊し、尾張国を相手に戦いを挑んだ
と見えるのです。

この3世紀半ばという時期には幾つかの事が起きています。
出雲西部から中央部を支配下に置いていた出雲の王族が忽然と姿を消します。
また同国の荒神谷遺跡に350本以上の銅剣が埋納されたのは、島根大学理学部の調
査により同時代250年頃と判明しています。
248年とされる卑弥呼の死、出雲王族の消滅、銅剣埋納、古事記にのみ記され日本
書紀には書かれないヤマトタケルの出雲騙し討ち伝承、大国主より出雲は譲られた
とする国譲り神話。
これらを結び付けた推理は「古事記に秘めた願い」(国譲りの真実)で述べています
ので、ここでは触れませんが、今回の再検討で見えてきたのは大和連合体制の崩壊
は周到に準備されたものであろうという事です。

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