邪馬台国は宗教国家でした。大和の中央集権体制へ変わっていくためには、3世紀
から4世紀の早い頃に政治指導者をトップとする国に転換していく必要があります。
どこかにその痕跡はないものかと長いこと、探していました。
まだ決定ではないのですが、もしかすると大和の大王墓の系列がそれを表すかも知
れない可能性が見えてきました。
考古学者の間でも議論が続いているものですので、もう少し研究の進展を待つ必要
があるのですが、ご紹介します。
下の図は大王墓の系列を示したものです。
箸墓古墳はご存知の通り、卑弥呼の墓とされる最有力候補です。
西殿塚古墳は台与のものとして注目されています。
他にも大和には多くの古墳が存在します。ところがどれが大王墓であり、どういう
系列なのかは研究者により意見が分かれます。

大王墓系列案 [千賀久, 2008]より引用・加筆
1案はこれらの大王墓を一系列として理解するものです。白石太一郎氏をはじめ多
くの研究者に支持されている主流の考え方と言えます。
2案は古墳研究の第一人者とも言える広瀬和雄氏が提唱するもので、茶臼山・メス
リ山古墳は大王墓ではなく、傍系の人物のものとします。この2つの古墳は前方後
円墳なのですが、他の古墳とは違い「柄鏡型」なのです。
他の前方後円墳の前方部は先が開く「バチ型」であり、周濠部を持ちます。
では、何をもって大王墓とするのでしょうか。[千賀久, 2008]より引用します。
「同時期の古墳のなかで圧倒的な規模をもつことと、墳丘規模が劣る場合でも
『新しい企画』を実現させ、以降の大王墓に影響を与えた画期的な古墳も加える」
とされます。
つまり研究者の見解の違いは「画期的であるか、また後の古墳に影響を与えたか」
の見解の相違とも言えます。
3案は石野博信氏が提唱し始めたもので、大型古墳の系列は一つではないとするも
のです。この古墳の並行関係は、それぞれの古墳の被葬者が大王の機能を分担して
おり、そこから連想できるのは司祭的な性格の王と政治・軍事的な性格の王との分
担ではないかというものです。
この考え方は「歴史の流れ」から当時の大和国の政治体制を読み解く際に、たいへ
ん重要な意味を持ちます。

大王墓の築造順と年代 [千賀久, 2008]より引用・修正
千賀久氏の見解を前出の本「ヤマトの王墓」から紹介します。
西殿塚古墳が築造されると同時期に茶臼山古墳が企画された。茶臼山の選地は東国
への交通に便利が良い場所であり、対東国政策を表している。
(私の見解は後述します)
次にメスリ山が造られ、行燈山古墳の築造後にこれら2つの系列が統合され、古墳
時代前期の最大規模300mを超える渋谷向山古墳が造られた。
これは王権の安定期を迎えたためであろうとします。
千賀氏は対東国政策のために茶臼山、メスリ山古墳が磐余(いわれ)の地に築かれた
とします。その役割もあったかも知れません。宇陀から名張に抜けるには便利な地
です。
ただこの時代、台与を立てる前に尾張国との決着は付いており、大和においてはも
っと大きな課題がありました。
それは宗教者をトップとした国から政治指導者への政治体制への転換です。
政治指導者が決めた事項を神に問うたら「否」と言われれば進めることが出来ませ
ん。どこかの時点で中央集権体制へと変わっていくこと。原始的な体制であっても
宗教国家からの脱却こそ、大和の最重要課題であったはずです。
前提知識として留意したい項目があります。
・ 魏志倭人伝において卑弥呼の時は各国が共立したとありますが、台与の時は「立
てた」と記される事
・ 同じく魏志倭人伝には卑弥呼、台与の名前のみが出てくるが、邪馬台国の祭祀者
はこの二人とは限らないこと。3人目がいたかも知れません
・ 纏向は4世紀の初めに突如消滅する、急に人がいなくなること
・ 茶臼山、メスリ山古墳からの出土品は、盗掘されていたために全容は見えないが
武器類が目立ち始める事
・ 中央集権化が進んだのは、三輪山、沖ノ島祭祀の国家が始まった4世紀後半と見
られる
この視点で上の図を読んでみます。
卑弥呼の死後、国が乱れたがこの時は大和の力、武を諸国に見せる付ける機会でも
あった。その目的を達し、大和を首都とした連合体制が再び築かれることとなった。
ただ宗教者である「台与」が倭国のトップではあったが、卑弥呼の時代に比べれば
大和の政治指導者の力が大きく影響するものとなっていた。
政治指導者の墓も大王墓クラスものが造られるようになった。
台与の在位期間は思いのほか短期間で終わってしまった。卑弥呼の60年の治世の
おおよそ半分の期間であった。台与の次に行燈山古墳に埋葬される次の祭祀者(女
性とは限らない)を立てたが、政治指導者の力はより強いものとなっていた。
4世紀になりしばらくすると、宗教都市としての纏向の役目も終わり、次の都への
遷都が行われた。遂に政治指導者が国のトップとなり、安定王権が大和に誕生した。
この王権を足掛かりに、中央集権体制が強化され全国への影響力もより強いものに
なっていった。
最後に思い出していただきたいのは、西都原古墳群81号墓です。西都原の中でも
最も古い古墳の一つで、柄鏡型前方後円墳が造られています。築造年代は3世紀半
ばとも言われています。
大和の茶臼山古墳よりも古いものです。ルーツはやはり日向にあったのか?
次回はこの柄鏡型前方後円墳の日向との繋がり、またこの墳墓が招いた記紀編纂者
の誤解について考えてみます。