神武天皇の実在性

  明治時代初期の版画

このサイトには「崇神天皇の実在性」で検索して来られる方が多くいます。 神武天皇はあまり検索されないようです。 神武天皇まで遡るとどうせ伝説であり、実在はあり得ないと思われる方が多いから かも知れません 今回は神武天皇の実在性について検証してみます。

邪馬台国[水野正好、白石太一郎、西川寿勝, 2010]より水野氏の文を引用します。

「推古朝、小野妹子を大使とする遣隋使節団と共に来日した裴世清(はいせいせい)
は日本での見聞を帰朝後詳細に報告し、その一部が『随書』倭国伝に採録されてい
ます。
注目されるのは『邪靡堆(やまと)に都す。すなわち魏志のいうところの邪馬台(や
まと)なり』の一文が見られることです。(中略)
『魏志』倭人伝のいう王都である邪馬台国が、推古朝の王都のある大和国であるこ
との確認を行い、結果としてこの記事が『隋書』倭国伝に登場することになったの
です。
実は邪馬台国所在地の確定は推古天皇16年(608)に終わっているのです。」

ここで確認しておきたいのは、場所ではなく邪馬台は「ヤマト」と発音することで
す。
倭国からやって来た使者の発音を聞いて中国人が漢字をあてた訳ですので、当時の
中国の発音が重要です。
魏志倭人伝も見ておきましょう。

「その国は、もと男子をもって王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国が乱
れ、互いに功伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。
卑弥呼(ヒミコ)という名である。」 [石原道博, 1951]

卑弥呼がはじめての倭王となる前、ヤマトは一地方国でした。卑弥呼が女王となる
70,80年前ですので2世紀初頭に建国されたことが分かります。
魏志にあるようにこの一地方国ヤマトの建国の祖である男子がいました。その人物
を天皇制は勿論まだ成立していない時代、また大王ではなく一国の王ですが、記紀
編纂者たちは敬意を表し漢風諡号「神武天皇」と呼んだわけです。
即位年は辛酉の年、121年とし2世紀初頭であったと示唆しています。
和風諡号を「磐余彦(イワレヒコ)」としたのは周濠を持たないメスリ山、外山茶
臼山古墳を箸墓などよりも古いものと見たためではないでしょうか。
地方国であった時代の王、特に建国の祖は奈良盆地東南部で活躍し、墓は磐余にあ
ったと考えたようです。

このように神武天皇とされる人物の存在は確認できます。

その後、語るべきことはあまり無い時代として、系譜のみを記す欠史八代として8人
の天皇(神武を含めて9人)がいたことにしました。
おおよそ一人10年の在位期間です。
この時代を経て各国が女王を共立しました。
大和の王は単なる「王」から「大王」へと変わりました。
崇神天皇はこの時代の複数の人物を重ね合わせて物語化されたものです。
この件はまた次の機会に詳しく触れることにします
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