雄略天皇の実像から考える皇統譜



大王墓の変遷
 
第21代雄略天皇にはどのようなイメージがあるでしょうか。
記紀では国見の途中に宮殿に似た家を見つけると不遜であるとその場で焼き討ちに
する。安康天皇を殺害した人物が眉輪王であることを知るなり、同母兄である兄二
人と眉輪王を殺すなど武断的な専制君主として描かれています。
また「倭の五王」中の倭王「武」に比定され、「宋書」倭人伝には武からの上表文
として「東のかた毛人を征すること五十五国、西のかた衆夷を服すること六十六国」
と大いに活躍した天皇として紹介されます。
文献資料からは雄略朝はヤマト王権の勢力を拡大した歴史的な画期であったと捉え
られることが多いようです。

実態はどうだったのでしょうか。

考古学の進展著しい今、大王墓の変遷を辿りその実態に迫ろうと思います。
図は [白石太一郎, 2013]の「畿内における大型古墳の編年」から大王墓のみを抽
出したものです。(矢印は筆者が追加)

簡単にその変遷を説明します。
箸墓古墳の被葬者は卑弥呼。西殿塚は台与とみられます。
魏志によればこの二人の間に男王が一人いましたが、各国は納得せずその支配地域
は大和のみで終わっています。つまり大王ではありません。単なる王です。
西殿塚の前後に築造されたいくつかの古墳のいずれかに葬られているのでしょう。
西殿塚の後、外山茶臼山、メスリ山と奈良盆地南東部いわゆる磐余(いわれ)の地に
動き、行燈山、渋谷向山と巨大化していきます。
その後、やや唐突に盆地北部の曾布(そふ)にある佐紀古墳群へと移動します。
この佐紀への移動はそれまで盤石であった初期ヤマト政権の内部で混乱が生じ始め、
その結果として曾布の勢力が王権を掌握したのだろうと白石氏は指摘します。

古墳はその被葬者の本貫地に営まれるものです。
大王墓が移動したという事は大和南部勢力から北部へと王権が移ったと考えざるを
得ません。
王権に血の繋がりが有るのか無いのかは残念ながら分かりませんが、有ったとする
可能性はかなり低いでしょう。

次に文献資料研究からも指摘される河内王朝へと移ります。
この時期は記紀においては兄弟間の皇位継承争いが始まり、血塗られた時代として
描かれる時です。
ただ沖津山、上石津ミサンザイ、誉田御廟山と古市・百舌鳥古墳群と頻繁に場所が
移りますが、二つの勢力の争いではなく王権を輪番制ともいうような順番で担当し
たと考えるのが妥当でしょう。
大和から河内に移った時のような天皇名(和風諡号)の変化や逸話で示唆される
「歴史の裂け目」は見当たらなく、移動の高い頻度からそう推測します。


雄略天皇の実態
 
やっとこの章の本題に入ります。
雄略天皇陵は白髪山古墳と考えられます。
今城塚は今の天皇家に繋がる継体天皇の陵であることがほぼ確実視されています。
雄略天皇陵は高鷲丸山古墳と治定されていますが、大王墓ではないのですからこれ
は成り立ちません。
大王墓とは隔絶した規模をもつこと、その時代の画期であることが求められます。
宋書にある倭の五王「武」は雄略天皇であることにはほぼ異論が出ていません。
そうすると西暦478年、479年、502年と中国へ朝貢した武の陵は白髪山古墳しかあ
り得ません。

ここで雄略天皇の実態が見えてきます。

つまり河内王朝の最後の王であったということです。
当時、近江を中心とした淀川水系において大きな勢力となっていた一族が王権を掌
握したのでしょう。

記紀においては雄略の後、清寧、顕宗、仁賢と続き武烈天皇で皇統は絶えたとし、
応神天皇の5世孫である継体天皇を見つけ出し擁立したとあります。
これは記紀が最も強く訴えなければいけない「万世一系」を作り上げるためです。
大和から河内へ系譜を繋げるために仲哀天王、神功皇后を登場させた手法と同じも
のです。
ただここの雄略、継体間の裂け目は記紀編纂が始まる7世紀に近いために、清寧から
武烈と4人の天皇を登場させ、念入りに覆い隠そうとした意図が伺えます。

継体天皇から文献資料の精度が上がるのは、この時代以後は隠すものが少なくなっ
たためとも言えます。

次回は雄略天皇の焦り、倭の五王について触れてみます。

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