物部氏を追いかける(3) 尾張の侵攻

唐古・鍵考古ミュージアム蔵

尾張の話しに移る前に少し寄り道をします。
物部氏の祖の姿を明らかにしようとすると、崇神紀に重要な記述があります。
崇神天皇が即位し5年、大和国内に疫病が発生し多くの民が死にました。翌年には
百姓たちが国を離れ始め、叛いて反乱する者も出てきました。その勢いは増すばか
りで徳をもって治めることも難しくなっていました。
崇神7年占いをしたところ、神明(かみ)は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそ
ひめのみこと)に神懸かりして
「吾は大物主神である。大田田根子(おおたたねこ)に吾を祀らせればたちどころに
平らぐであろう」と告げました。
その年の11月、大田田根子を祭司とし物部(もののふ)の八十*を以て作らせた
平瓦(ひらか)**を神祭りの物とされました。
すると疫病は止み、国内は鎮まり、五穀はよく実り百姓は賑わった。
このように物部氏は大和政権の早い時期から大きな勢力を持ち、祭祀にも繋がる一
族だったと記されます。

*: 物部氏に卒いられていた武人の伴(とも)。その数が多かったので物部の八十氏と呼ばれた
**:ここの訳には諸説あるが [坂本太郎他, 1994]を採用した

尾張・東海勢力と瀬戸内海勢力の間に何が起こったのか。
奈良盆地を中心に検証してみます。
1世紀の大きな出来事となると漢鏡の動きです。



年表で漢鏡に注目したのは、比較的年代が正確に特定できるためです。
1世紀の後半、漢鏡5期の時代になるとそれまでほとんど北九州から出て来なかっ
た銅鏡が東方へ流出します。その先は大半が今の兵庫、大阪に集中しています。
また少量ですが四国北側を含む瀬戸内海諸国へも流れています。ところが尾張・東
海地域への流入はほとんど認められません。
[岸本直文, 倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス, 2014]

もう一つ代表的な先進物である鉄器は、残念ながら時代特定が難しくなかなか情報
がないのですが、少ない情報を見る限りおおよそ同じ傾向を示します。
[寺沢薫, 2000]
1世紀後半のある時期、北九州勢力は独占していた半島・大陸との交易品を東方へ
も流し始めたのです。
瀬戸内海ルートを開放しました。瀬戸内海諸国の港は賑わいを見せたことでしょう。
そうすると取り残された他の国々、日本海沿岸諸国や尾張・東海勢力はどうしたの
でしょうか。
山陰地域は福永伸哉氏により既に指摘されています。 [福永伸哉, 2001]
まず1990年代以降の発掘調査によって、日本海地域の目を見張るような繁栄の
様子が明らかになってきました。
丹後半島にある峰山町扇谷遺跡からは弥生前期末~中期初頭の鉄斧が出土し、大陸
との交易が認められていた。同じ丹後半島の奈良岡遺跡からは中期後葉の鉄器とし
ては北部九州を含めて列島屈指の量となる8kg以上の鉄素材が出土し、この地域
の交易力への認識をあらたにした。
広い平野に恵まれず農業生産力は決して豊かではない丹後地域がこれほどの力を蓄
えた原動力は、天然の良港と荒波をこえる航海術を武器にして、鉄素材を中心とす
る流通拠点として台頭したのだろう。
として、大陸との直接取引とする根拠を次のように述べます。
「大陸の鉄器や鉄素材の多くが、北部九州を経由して流入したと考える必要もある
まい。北部九州からこれだけ多量の大陸物資がもたらされたとしたら当然含まれて
よい後漢代の銅鏡が、日本海地域にきわめて少ないことはその証左ともいえる。」

日本海沿岸諸国は高度な航海術で直接取引を可能にしていました。
そうすると取り残された尾張から東海地域が問題となります。またここで触れてお
かなければならないのは、考古学から見て尾張は狗奴国であった説が強く出てきて
いることです。
「邪馬台国からヤマト王権へ」 [橋本輝彦・白石太一郎・坂井秀弥, 2014]から
白石太一郎氏の章より引用します。
「三世紀前半の西日本はまさに前方後円形墳丘墓の時代であり、東では前方後方形
の墳丘墓が盛んに造られていたのです。
『魏志』倭人伝では狗奴国は邪馬台国より南と書いてあるんですが、これは邪馬台
国畿内説をとれば東と読みかえなければならない。 
 中略
三世紀前半の西日本には、いわゆる邪馬台国連合と呼ばれる畿内から瀬戸内海沿岸
各地を中心とする広域の政治連合ができあがっていたのに対し、東日本にはこの濃
尾平野の勢力を中心に狗奴国連合ともいうべき政治連合が出来上がっていたのでは
ないか。そしてそれが卑弥呼の晩年、何等かの理由で衝突するわけです」

東海地域はしばらく大和の前方後円墳を採用しない独立した文化圏であったことや
、大和に対抗しうる勢力を養える土地を大和近くで有するのは濃尾平野からの東日
本をおいて他にはないことなども鑑みて、白石氏の説は説得力のあるものだと思い
ます。 

下図は「神武東征前に大和にいた一族とは」で紹介した瀬戸内海勢力が作り上げた
第2期の高地性集落の分布です。先日も紹介しました。


 近畿地方の高地性集落の分布 [石野博信, 2015]の図より引用し近畿地方を拡大

銅鏡などの出土、倭国における各勢力が置かれた状況、歴史の流れからみて、私は
この高地性集落の分布は尾張国が奈良盆地へ侵攻してきたのだと見ます。
もう少し正確に言えば、尾張・東海勢力が瀬戸内海ルートを求めて西進を始めたた
のです。
それを止めるために瀬戸内海勢力は高地性集落を置いたのでしょう。また防衛拠点
のためだけではなく、当時の大阪平野は現在よりもかなり狭いものでした。守るに
は難しい地形でもありました。
そのために協調関係が崩れた今、大阪湾(当時は河内湖)と川でつながる奈良盆地
を支配下に治めようとしたはずです。
時代は1世紀末、倭国大乱のおおよそ100年前辺り。
この対立が大和建国へと繋がっていきます。
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