唐古鍵遺跡より出土した人骨からの復元像(渡来人と見られる) 唐古・鍵考古ミュージアム蔵
唐古鍵を管掌していた勢力が瀬戸内海東部から東海、日本海側までを統治下に置 いていたのでしょうか。 その可能性は低いと思います。 西日本の連合体制の首都であった邪馬台国の場合、纏向遺跡という巨大な都市遺 跡が見つかっています。それに肩を並べる程の集落などの痕跡はありません。 この銅鐸分布は別の力が働いた結果と見るべきでしょう。 奈良盆地一族の姿をもう少し明らかにするために、大型銅鐸は何のために作ら れたのかを検討してみます。 前掲の福永氏の言をまとめると「仲間と認め合うシンボルである」ということ。 農耕儀礼、首長層の婚姻儀礼、首長間の交渉や饗応などの場において巨大な銅鐸は 有用な舞台装置であったであろうこと。それを目にすることで人々は自分の属する 集団の政治的な立場と連携相手を理解したであろうとも指摘します。
大型(見る)銅鐸の分布図を再確認すれば、唐古鍵周辺からは出土していないこと に気が付きます。 これをどう理解するか。 まず近畿式銅鐸ですが、私は高地性集落を作った瀬戸内海勢力、吉備国を中心とす るこの勢力が唐古鍵を統治する一族に生産を依頼し、この一族の助けを借りながら 重要拠点となる各地域に配布したと考えます。 出土した場所の限界地点を見れば四国南東部、紀伊半島南部、伊勢から東海地方の 遠江、山陰の丹後、伯耆国となります。 これは太平洋、日本海側ルートの確保に必要な地です。 1世紀前半まで銅鏡といった先進文物の朝鮮半島、大陸との交易は北九州・玄界灘 勢力がほぼ独占していました。、長い時代、確認できるだけでも紀元前1世紀前半 からこうした状態が続いています。 [岸本直文, 倭における国家形成と古墳時代開 始のプロセス, 2014] 北九州はその権益を守るために、特に海域の防衛には力を注いだことでしょう。 弥生時代後期、いわゆる戦争の時代へと突入していきました。 北九州勢も守るだけではなく、相手の海域に攻め入ることもあったでしょうから、 出雲、瀬戸内海の各勢力もその地域の監視・防衛は時代と共に重要性が増していっ たはずです。
4大地域首長連合のシンボルと分布( [福永伸哉, 2001]を参考に修正・作成)
尾張・東海勢力の関係はどのようなものであったのか。 近畿式、三遠式の類似性、配布地点の重なり、特に近畿式を濃尾平野にも受け入れ ていること、丹後や近江(現野洲市)からの三遠式銅鐸の出土は共に琵琶湖を経由 した日本海ルートを開いていたようです。 瀬戸内海勢と尾張を中心とする勢力は、協調関係にあったと見えます。 奈良盆地の一族も東海地域に同じ工房を建て工人を送り込む時は、一番の得意先で ある瀬戸内海勢の賛意も取り付ける必要があり、苦労も大きかったでしょうが、比 較的穏やかな時代であったと言えるようです。 ところがこの後に大きな事件に巻き込まれます。 尾張国が奈良盆地へ侵攻してきたのです。