物部氏を追いかける(1) 神武東征前に大和にいた一族とは

神武東征時にすでに大和入りをしていた一族とは
 

これから物部氏を追いかけていきますが、記紀によれば神武天皇が大和に東征して
きた際にすでに大和入りをしていたニギハヤヒ命を長とする一族がいました。
時代は魏志倭人伝にあるように「邪馬台国」で卑弥呼が共立された2世紀後半の
70-80年前に大和は男の王によって建国されたとあります。
また日本書紀は中国の史書にあからさまに記された場合、その年代を肯定する傾向
があり、神武天皇の橿原の宮即位を辛酉(かのととり)の年、西暦121年として
います。(「古事記」に秘めた願い P.81)
よって大和の建国は2世紀の初めとして、この前後の時代に注目することにします。

まずこの奈良盆地に在住していた一族とはどんな人たちだったのでしょうか。

弥生時代後期、紀元前から後へ変わる頃の話しです。
弥生の時代区分はよく変わり研究者によって違うこともありますので「邪馬台国か
ら大和政権へ」 [福永伸哉, 2001]の定義を参考に進めます。
氏によれば弥生時代後期は紀元後にすぐ始まり西暦200年頃まで、その後の260年
までを晩期として、古墳時代へと繋がります。
紀元後になったあたりで、弥生時代の環濠集落は次々と廃絶されていきます。
そして同時に「聞く銅鐸」とも呼ばれる紀元前2世紀より作られてきた比較的小さ
な、吊るして鳴らす銅鐸が集落の終焉と共に埋納されました。
この現象は九州から南関東まで広くみられるものです。
この要因を前掲書で福永氏は、それまでの石器から鉄器への移行があり、鉄は従来
の交易圏をはるか外側で産するものであるため、産出地と流入地を結ぶ極めて長く、
かつ確実な流通網をつなぐ必要があった。
狭い地域で完結する閉鎖型の社会から広域交渉型への社会へと変わっていったため
と指摘します。

ただしここ奈良盆地にある唐古鍵は稀な例で、そのまま残りました。
縄文時代から続くこの集落は、邪馬台国の前期まで、古墳時代が始まる時代まで続
きました。


 見る銅鐸 野洲市立博物館蔵

写真は見る銅鐸とも呼ばれる大型銅鐸です。近畿式という耳飾りを持つものです。
現在の技術でもなかなか再現が難しい鋳造技術で同じ規格を踏襲し、大陸産と見ら
れる潤沢な材料を使っていることなどから、少数の工人グループ、同じ工房で作ら
れた可能性が高いと言われます。
その場所が鋳造関連の出土物が多い唐古鍵が最有力候補とされています。

この奈良盆地には唐古鍵を管掌する大きな勢力が存在したようです。
まずこの大型銅鐸の大陸産と見られる材料の入手ができ、高い鋳造技術を有する渡
来人を連れてくることができた一族でなければなりません。
そして銅鐸は祭器、神器です。
推測にはなりますが、祭祀に通じている必要があったのではないか。
石斧や石包丁とは違い、ただ道具としての機能を満たしていれば良いわけではなく、
納品時、その場所に出向きそこで祭祀・儀式を行ったのではないでしょうか。
神と繋がるものであるため、その扱いは決まったものがあったはずです。
つまり高度な生産能力と祭祀に通じ、広範囲にも及ぶ流通能力をも持っていた一族
の姿が浮かび上がってくるのです。
     見る銅鐸の分布

その範囲は東海地方にまで及びます。
大型銅鐸は突線紐式(とっせんちゅうしき)2式から5式まで発達していくのです
が、3式の時代、近畿式とそっくりな尾張・東海地域から出土する三遠式が現れま
す。
兄弟銅鐸とも呼ばれるもので、同じ工人グループが作ったようです。
つまり唐古鍵の工房と同じものを尾張国から東海地方のどこかに建てたのだろう
と見られています。
場所、遺跡はまだ発見されていません。

これだけの範囲にある国々と関係を持っていた一族ですので、この勢力が後の邪馬
台国を建国したとする研究者もいますが、はたしてそうでしょうか。
私は違う考え方をしています。


         高地性集落の分布

もし近畿を中心とした勢力がそのまま邪馬台国に結実していったのであれば、瀬戸
内海の諸国はこうした高地性集落を、奈良盆地を取り囲むようなこれだけの布陣を
作り上げる必要はなかったはずです。

 

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