天孫降臨の地は高千穂町か霧島連峰か

高千穂峰の天逆鉾(GNU Free Documentation License)

ニニギ命が降臨されたのは西臼杵郡高千穂町なのか、霧島連峰の高千穂峰なのか。
本居宣長から始まり未だに決着が付いていない問題です。
今回、両方の地を廻って来ましたので自論を述べます。

まず「天孫降臨」とは事実ではありません。(念のため)
記紀の編纂者がどこをイメージして記したのかを探る事になります。
古事記の記述です。
ニニギ命が高千穂のくじふるたけに天下った時に
「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙の岬*に真来(まき)通りて、朝日の直さす国、夕日の
日照る国なり。かれ、この地はいと吉き地」
と申され、この地に壮大な宮殿を建てお住まいになりました。
その後、笠沙の岬で大山津見の娘であるコノハナサクヤ姫**と出会い、結婚されました。
*:笠沙の岬は薩摩半島の西端、野間岬のこと
**:亦の名をカムアタツ姫。阿多の隼人の女神

西臼杵郡高千穂町を代表する神社は、高千穂神社、天岩戸神社でしょう。
これらの神社は平安時代中期の「延喜式神名帳」に記載されていません。
霧島神宮は霧嶋神社として載っています。
記紀編纂の目的の一つは神社建立と共にそれまでの日本の神々の姿を変える
こと。
どこにおられるか分からない浮遊する神を神社という祭祀施設で常に祀ること。
宗教改革です。
古事記成立から200年も経った後に延喜式は編纂されました。天孫降臨、
天孫の宮に通じる重要な場所は祭祀の場であったはずです。
そこに神社が建てられていなかったというのは、おかしな事です。
国家祭祀の場であった、三輪、沖ノ島ともに大神大物主神社、宗像神社三社と
してあります。
従来の議論はこの視点が欠けています。
神宮ではなく神社であることは問題ではありません。
当時、神宮は伊勢の大神宮と鹿島神宮のみ*。あの石上神宮でさえ石上布留御魂
神社です。
*:香取神宮も延喜式に神宮名で載っているとの話がネット上で出回っています
 が間違いです。香取神社です。

西臼杵郡高千穂町の神社は在地住民の信仰から始まり後世造られたようです。
地名、風景の特徴などから信仰が始まり、今日に至ったのでしょう。
この一点から霧島連峰の高千穂の峰に軍配を上げますが、もう一つ古事記の記述に「この地
は笠沙の岬にまっすぐ通じて」とあります。

  左から笠沙の岬、霧島神宮、高千穂町 天岩戸神社(Google Map)

「笠沙の岬から真来通りて」に相応しいのは、やはり霧島であろうと言えます。
政権への反乱を繰り返しやっと服属した隼人族への気遣いもあったのではないで
しょうか。

最後にもう一つ「この地は韓国に向かい」とありますが、この意味は何でしょう
か。
本居宣長は霧島連峰の一つ、韓国岳を指しているとしました。
また天皇は韓国から来たことを示しているとする人もいます。
そうではありません。
「この地」とは天孫が降臨して住まわれた場所を指しています。
そして地図を見れば一目瞭然、笠沙の岬から韓国まで一直線です。
北部九州の繁栄の理由は何だったでしょう。
朝鮮半島南部から出る「鉄」、半島を通じて大陸との交易を独占できたためです。
大和発展にはこの先進国との交易を北部九州勢から奪い取る必要がありました。
当時の先進国に向かっている地であることを表し、大和政権の飛躍への思いを込
めたものと考えます。
笠沙の岬から距離のある場所では、記紀編纂者が考え出したこれらの舞台設定は
成り立たないのです。
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