日向と大和の関係を考える

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   西都原古墳群

国・地域としての関係、大王・王のあり方からの考察です。

西都原考古博物館の館内資料より、日向と瀬戸内海勢の関係は土器の動きから、
時代は特定できませんが、古くから少なくとも大和建国前から既にあったと思わ
れます。瀬戸内海沿岸国から食べ物など贈り物が土器に入れられてやって来たの
でしょう。
そして4世紀に入ると急にその関係が強くなったように見えるのです。
大和は中央集権化を進めますので、他の国々にも影響力は強めていきますが、日
向とは特別な関係であったことが見て取れます。
・3世紀後半に最古の柄鏡式前方後円墳の一つである西都原古墳群81号墳が築造
 される。
 柄鏡式は箸墓式の後に続く古墳の一つの形式。
 大和においての柄鏡式である桜井茶臼山古墳とそっくりであること。
・4世紀に入ると墳丘176mの全国最大の帆立貝形古墳(西都原古墳群 男狭穂
 塚)が、その後に続いて九州最大の全長176mの仁徳天皇の妃の一人、髪長
 姫陵と伝わる前方後円墳が造られる。(女狭穂塚古墳)
 女狭穂塚古墳は大阪の仲津山古墳の5分の3の相似形であること。
 また全長136メートルの前方後円墳で、畿内の箸墓古墳の2分の1の大きさの相似
 形とも言われる生目古墳群1号墓が造られる。
・しかしそれだけの動員力、女狭穂塚古墳の場合一日千人が働いて2年半掛かる動
 員力を日向は持ちえなかったと集落遺跡の観点からみられる。
これは大和という後ろ盾があったと考えていいのではないでしょうか。
他の国が支援するとは考えにくい。
邪馬台国であった纏向の終焉が近づくにつれ、日向の古墳建設、大和の支援が活
発になるわけです。
なぜこうなったか。
日本書紀では大和建国は辛酉の年(AD121年)、魏志倭人伝によれば卑弥呼共立
の70、80年前である2世紀前半と読めます。
全国に影響力を持つのは卑弥呼の下に連合体制を持った2世紀末、190年頃で
しょう。
日向勢が中心となり瀬戸内海勢力と大和を建国したとしても卑弥呼、台与の時代
の約100年間は一地方国の大和国の王として留まざるを得ません。
台与が亡くなったのは3世紀末から4世紀初頭でこれは纏向の消滅と西殿塚古墳
の築造年代からそう推定されます。
一地方国の王から大王へと変わった時、4世紀が始まるころ、約200年前に先
祖は日向からやって来たという伝承が残っており、関係を深めていった。

卑弥呼、台与は「占い師」の一族です。
それまでの、その後の王族とは明らかに違う血筋。
女王の時代、大和には多くの国々から代表者が派遣されていました。勝手に日向
を支援することは難しかったでしょう。
また一地方国では支援したとしてもそう大きな力ではなかった。
祭祀者から政治指導者が大王となった時、大和を建国した一派が返り咲き、日向
との深く強い関係がやっと始まったと考えます。

 

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