尾張との決定的な対立と大和連合体制の崩壊

魏氏倭人伝にある狗奴国は尾張国及び周辺地域のことという説は先に紹介した通り
です。
大和、尾張は卑弥呼の晩年近くに対立しました。

魏志倭人伝を見ると、

倭の女王・卑弥呼は、狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)と素(もと)より不和な
り。倭、載斯(さし)・烏越(うお)らを遣わして郡に詣(いた)り、送って、相攻撃
する状(さま)を説く。
郡太守は塞曹掾史張政(さいそうえんしちょうせい)等を遣わし、詔書(こうしょ)
・黄幢(こうどう)*を齎(もたら)し難升米(なしめ)に拝仮(はいか)せしめ、激を
為(つく)りてこれを告諭す。 [松尾光, 2014]より引用

*:魏の正当な軍事行動を示す、柄に紐を付けて吊るした黄色い垂れ旗のこと

この後、卑弥呼は死し、男王を立てるが国中服さず互いに誅殺し、当時千余人を殺
した。
卑弥呼の一族である13才の台与を立て、やっと国が治まった。
と記されます。

意味もなく使者を送ることはしませんので、倭から魏へ使者を送ったのは支援を
求めてのことでしょう。尾張との戦いはその後、広がり国が乱れました。台与を擁
立するまで続いたとされます。
どうも不可解な点がありますので、順を追って見て行きます。

魏志倭人伝によれば尾張とは卑弥呼を共立すると間もなく、対立し始めたようです。
前述しましたように物部氏の祖を追いかけることで、1世紀末葉頃まで大型銅鐸の
生産の様子からこの地域は協調関係にあったことが分かりました。
その後、瀬戸内海ルートが開かれ大陸と繋がったために、尾張国は河内湖(大阪湾)
へ西進を始め戦乱を引き起こしました。

その後半世紀以上経った倭国大乱時はどうだったのでしょう。
瀬戸内海諸国(特に東部地域)と大和は北部九州へ討って出るために、東国対策を
しておく必要があったはずです。
西へ攻め行くためには東から、背後から尾張に攻撃されることだけは避けなければ
なりません。
そのために瀬戸内海・大和各国は北部九州を攻め落とし、大陸との交易が可能とな
った際には尾張にもその分配を約束して、和平を取り付けたのではないか。
尾張国はその約束を信頼し、大和を攻めることはなかった。
もし攻め入っていたら、広大な土地を持ち強大な戦力を持っていた国ですので、大
乱の結果は違っていた可能性があります。
しかし遺跡等からの出土品を見れば尾張の期待とは違い、大和まで銅鏡・鉄器は渡
って来ますが、尾張へはほとんど渡らなかった。
これには尾張も怒ります。
卑弥呼を各国が共立し連合体制が出来た後、尾張には鉄も銅鏡も渡って来ません。
時が経てば経つほど尾張からの「約束を守れ」という要求は益々強くなっていった
はずです。遂には戦争状態となりました。
歴史の流れを見れば、この戦いの結果は大和側の勝利に終わりました。

不可解な点とは、なぜ連合体制が崩れたのかです。
卑弥呼共立後、連合体制が終わり再び国乱れるまで半世紀以上の期間があります。
それまでに尾張は戦いを仕掛けていました。大和連合と尾張国の全面対決となるま
での時間でしょうか?
少々掛かり過ぎているのではないか?
大和(連合)は尾張国との戦いで魏に支援を求めるなど、あまりにのんびりとした
悠長な姿勢を見せています。
箸墓古墳の造りを見れば、大和連合体制は日本海側諸国を含む西日本の大半を含む
勢力圏です。倭国大乱で傷ついたとは言え時と共に回復していたはずです。
なぜ遠い魏に時間を掛けて使者を送ったのか。
どうも魏にまで支援を頼んだのは、諸国へその影響力を見せ付けるためではなかっ
たか。
魏との強い繋がりを見せるには絶好の機会でした。
尾張との戦いが連合体制を壊したのであれば、もっと早い時期に崩れ去っている
べきでしょう。
連合体制の崩壊は大和側の作為を感じるのです。

満を持して大和・瀬戸内海勢力は連合体制を破壊し、尾張国を相手に戦いを挑んだ
と見えるのです。

この3世紀半ばという時期には幾つかの事が起きています。
出雲西部から中央部を支配下に置いていた出雲の王族が忽然と姿を消します。
また同国の荒神谷遺跡に350本以上の銅剣が埋納されたのは、島根大学理学部の調
査により同時代250年頃と判明しています。
248年とされる卑弥呼の死、出雲王族の消滅、銅剣埋納、古事記にのみ記され日本
書紀には書かれないヤマトタケルの出雲騙し討ち伝承、大国主より出雲は譲られた
とする国譲り神話。
これらを結び付けた推理は「古事記に秘めた願い」(国譲りの真実)で述べています
ので、ここでは触れませんが、今回の再検討で見えてきたのは大和連合体制の崩壊
は周到に準備されたものであろうという事です。

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大和建国へ(5) 卑弥呼の出生地を推定する

卑弥呼一族の出生地
 
倭国大乱が治まり、各国が女王を共立します。
その卑弥呼とその一族はどこからやって来たのでしょうか?
下の図は候補地です。
あまり小さな国では発言力が小さすぎますので、やはり国力・地域勢力の大きさは
一つの目安になるでしょう。

 

まず尾張国、北九州地域は候補から落としました。
尾張国は狗奴国のことであると考古学から強い説が出ています。 [橋本輝彦・白石
太一郎・坂井秀弥, 2014]
魏志倭人伝によれば、邪馬台国と以前より仲が悪く、卑弥呼の晩年近くには武力衝
突となっています。銅鏡の出土も少なく、大陸との交易は日本海側ルートを通じて
行っていた尾張国。しかも関が原を経由せざるを得ないため、季節性が強く冬は雪
で使えないルートです。
この国は神仙思想、卜骨占いとは縁が薄いと見られ、候補地には相応しくないと考
えます。

北九州地域は朝鮮半島、大陸との関係が強く、最も繁栄した地域で、銅鏡・鉄器共
に大量に出土しています。しかしながら倭国大乱における被征服地です。
伊都国には一大卒という監視体制が敷かれ、大和から多くの土器が流入しています
つまり邪馬台国のかなり強い支配を受けていた地であったと見られます。
この敗戦国の地域から、戦勝国が女王を共立するとはやはり考えにくいのです。
残るのは当初影響力が大きかった吉備国周辺、出雲を含む山陰地域、大和国周辺で
す。

吉備国はどうでしょうか。
戦勝国の中でも中心的な国の一つでしょう。しかしながら当時の巫女を育てる要因
は何であったか。
占い・祭祀の一族を育てる環境は外洋航海により作り上げられたのではないか。
特に大陸への航海は特別なものであった。
命を懸け、国の命運さへも握るものでした。

持衰(じさい)についての魏志倭人伝の表記
中国往還の渡海の際には、つねに一人の人物を、頭髪を梳かせないで、しらみをと
らず、衣服を垢で汚れたままにし、肉を食べず、婦人を近づけないで、喪に服して
いる人のようにする。これを「持衰」という。もし、航海が無事なら、人々は彼に
「生口」や財物を与える。
しかし、病人が出たりした場合、暴風雨の被害に遭った時には、これを殺そうとす
る。持衰が禁忌を守らなかったせいだという。

同書は倭国においてあらゆる大事な事柄を行うとき、決めるときには占いをしたと
あります。持衰の例からも中国への渡海は最重要イベントであり、しかも機会の多
いものであったはずです。
占い文化を大きく育てたであろう大陸への中国への航海が少ない吉備は外れます。

 

写真は占いで使われた骨 左は中国のもの(富士美術館 「漢字三千年展」にて撮影) 、右は唐古鍵
遺跡より出土(唐古鍵考古ミュージアム蔵) 
中国、日本のものもそっくりです。違いは中国のト骨には文字が書かれています。
北部九州に近い出雲は倭国大乱において大きな活躍があったと見られます。しかし
ながらその後の首都は大和となりました。当時、この二国間には政治的な思惑が渦
巻き、強く綱引きが行われていたと推測します。
この政治情勢辺りは「古事記に秘めた願い」P.163「大和第二の建国」で触れてい
ますので、詳細は割愛しますが、こうした情勢上、出雲または大和周辺国からの擁
立は難しかったと考えます。(あちらを立てればこちらが、というやつです)
そうすると中国大陸との交易があり、頻繁に外洋航海を行っていた地域となると、
やはり山陰地域を筆頭に挙げざるを得ません。
当時のこの地域の中心的な旦波(たには)国というのは、古くさかのぼればその領
域は広がり、少なくとも丹波、丹後、但馬、若狭を支配していたようです。
 [伴とし子, 2012]

卑弥呼・台与をモデルに神功皇后は記紀編纂時に作られた実在しない人物です。日
本書紀本文には皇后の御世は卑弥呼、台与の時代であることが明記されていること
から分かります。
その神功皇后の父系を辿れば開化天皇に繋がり、開化天皇は丹波との強い関係が描
かれます。母系はアメノヒボコに繋がり、この人物は但馬国で後継を残しました。
以前、紹介しました天橋立近くの籠神社(このじんじゃ)には日本最古の系図が伝
わり、卑弥呼と見られる名前が載ります。
そのまま史実であったとは思いませんが、伝承は残っていたのかも知れません。
確実に言えることは、神功皇后紀の記述、延喜式にも載る籠神社の創建年代の古さ
から、記紀編纂者は山陰との繋がりをなにがしか認識していたというこです。
その為に記紀に記し、モノとして神社も建立したのでしょう。

山陰地域の中でも、多くの鉄器の出土する旦波国、その古地域である但馬、丹後、
丹波、若狭を第一候補として考えるべきです。
では、こうした山陰と大和が結び付く時に、つまり国のトップを祭祀者にしようと
なった時に、女王に相応しい巫女やその一族はいるのか、いるとすればどこにいい
てどの国の王と関係が深いのか、そうした情報を持っていた、若しくは探すことが
できる人物、一族は物部氏です。
瀬戸内海東部、大和周辺国、旦波国との大型銅鐸により各地と強い関係があったの
はこの一族です。最も豊富な情報を持ちえたでしょう。
以前も申し上げましたが、銅鐸は祭器・神器であるためにただ作れば終わりではな
いはず。それを出荷から納めるための祭祀手順を知り、現地でもその地の祭祀者と
共に銅鐸を実際に祀ったのではないか。
触れることが出来る人の規制(物部氏関係者のみか)もあったかも知れません
今の沖ノ島の入島規制など厳しいありようを見ればこうした想像は、的外れとは思
えないのです。

 

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大和建国へ(4) 倭国大乱

倭国大乱へ

2世紀初めに建国された大和はその後、いわゆる倭国大乱の時代へと入っていきま
す。
「其の国はもともと男子を以て王と為す。住(とど)まること7,80年にして倭国
乱れ、相功伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為せり。名付けて
卑弥呼と曰う」  [松尾光, 2014]を参考に作成

つまり倭国大乱は2世紀後半に起きた何年にも渡る戦争状態であったことが分かります。
記紀でこの時代はどこに当たるのでしょうか。
大乱まで、その準備期間は第2代綏靖天皇から9代開化天皇までの時代です。
この時代は各天皇の事績は「記すべきものがない」として書かれず、系譜のみとなり
ます。「欠史八代」と呼ばれます。
建国時については皇家や周辺一族にいくらか伝わる話もあったかも知れません。
しかしその後の時代、倭国大乱を経て大和が連合体制とは言え全国制覇へと進むま
では伝承も少なくなるのは、致し方ない事です。
中国史書を頼りにした記紀編纂者も、特に大和一国を中心とした物語を書くことは
難しかったのでしょう。
倭国大乱時、その時は第10代崇神天皇の御世です。
地域勢力の争いではなく、大和一国の全国平定とされます。
記紀編纂の目的から言えば、そう書かざるを得なかったわけです。


倭国大乱の目的と関係国
 


では、倭国大乱はどこの国と国が戦ったのでしょうか?群雄割拠する各国がそれぞ
れ勝手に戦ったのでしょうか。
どうもそうではなく、先に紹介しました「4大文化圏」の争いであったと考えます。

・北九州地域が朝鮮半島、大陸との交易を独占していた時代が長く続いた
・銅鏡の分布から1世紀中頃から後葉にかけ、瀬戸内海ルートを開き、摂津国や河
 内国へ多くの銅鏡が流れた形跡がある。2世紀になると再びこのルートは閉じた
・他の地域、国との交易は首長の責任であるため、地域内・国内からの不満、解決
 への圧力が高まった
・その結果、北部九州「広型銅矛」文化圏を除いた3つの地域が協力関係を持ち、
 北部九州へ独占状態の開放を求めた
・鉄器の流通を見ると [寺沢薫, 2000]、2世紀後半、瀬戸内海、山陰を中心とす
 る日本海側地域に流出しているため、その交渉へ北部九州側が応じる姿勢を見せ
 たが、圧倒的な格差は埋まらず、戦争状態となった
・歴史の流れを見れば女王が都した国は大和であること、女王共立後の3世紀になる
 と大和国への鉄器流通量は飛躍的に増加すること。
 またこの時期の銅鏡は北部九州からは出土しなくなり、畿内へ集中的に存在し始め
 ること

などから、倭国大乱は3地域の勢力が大陸との交易を求めて起こした乱であり、瀬戸
内海東部がその中心的存在であり、勝利者であったことが分かります。

この時の吉備国ですが、高地性集落という東部地域との共通文化を持っていたため
に瀬戸内海勢力として見ること、特に大和建国など初期においては中心的な存在で
あったとすることに異論はありませんが、女王を共立した後は大和周辺地域に力・
関心が集まり、徐々に衰退というべきか、少なくとも相対的な地位は低下していっ
たと見られます。

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大和建国へ(3) 東征中に配下に入った者と大和の奇跡

大和建国のあと2世紀後半に起きた倭国大乱まで半世紀ほどしかありません。
神武天皇一族、九州から共にやって来た大伴氏、最後に加わった物部氏と周辺の在
住一族により急速な国造りが始まりました。

サヲネツヒコは神武勢が瀬戸内航行中に、亀の背中の上に乗って釣りをしていた人
物で、海路に詳しいというので仲間になりました。
その後、紀の川沿いの五條市、吉野の人たちを味方につけ、最後はニギハヤヒ、物
部氏の祖が帰順します。
盆地南部を取っ掛かりに勢力を伸ばしていったと古事記は伝えます。

ヤマトタケルの東征など妻を連れて行った場合、その旨記されますので、后は東征
中、九州にいたようです。
大和が神武の下に治まった後に、后と大后の話しになりますので、橿原の宮で即位
した後に后を九州から呼び寄せたようです。

大和の奇跡
なぜわずか半世紀ほどの間に大和は強大国となり得たのでしょうか。
この急速な発展はなぜ出来たのか。
西都原考古博物館の見解を館内資料からまとめてみます。
 北部九州からは石斧が多く出土する。近畿地方の集落からは石斧は少なく石包丁
 が多く出る。
 つまり石斧が多く出土する北部九州は、樹木を伐採しての開拓に多くの労働力を
 割かなければならなかった。近畿地方はこの開拓の労力から解放されていた。
 この差が両者の蓄積された体力として大きく開いていくことになる。



ここから倭国大乱後に連合体制の首都となる大和の快進撃が始まります。

 

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大和建国へ(2) 九州から神武に従っていた関係者

イツセノミコトは生駒でのナガスネビコとの戦いで負傷し、戦死します。、
タギシミミは神武天皇の九州で娶った后の子です。神武崩御の後、謀反を企てます
が失敗します。
エウカシ(兄)が宇陀の屋敷に押機(天井を下げる仕組み)という罠を仕掛けた時、
オトウカシ(弟)がこれを神武勢に知らせました。この時、エウカシを討ち取るの
に活躍したのが、大伴氏と久米氏の祖(大伴氏の配下の者と見られる)です。
大伴氏は後に加わる物部氏と共に軍事担当です。
特に大伴氏は皇族の親衛隊のような位置づけで、宮廷警護をも担当します。
九州からの部下のためでしょう。天皇の信任の篤さが見られます。


  古代豪族の配置図 「星の町 交野市HP」より引用

物部氏は東征時に最後に従った一族です。
また最終的には瀬戸内海勢に加担しましたが、尾張とも関係が深く、どうしても寝
返った一族との意識が周辺の関係者にはあったかも知れません。
しかしながら旧臣の一人ですし、大和建国には無くてはならない奈良盆地在住の一
族ですので、上の図のようにすぐ王族の横においた配置は理解できます。

神武一族(兄と皇子のみ、后は連れていない)と大伴氏一族で東征に出たと古事記
編纂者は記しています。
やはり国の一族郎党、大船団を率いてやってきたイメージとはかなり異なります

 

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大和建国へ(1) 天孫降臨の編

物部氏と良好な関係を「大和」で築いた神武勢はどのように国を立ち上げていった
のか。
これを推測するために、いつどの一族が大和建国に加わり始めたのかを検証します。
古事記(供述)を見直してみます。
日本書紀は漢文で書かれ人々に読まれる書でしたので、当時の豪族の力関係に影響
を受けるために、今回は「古事記」を使うことにします。

まずは図の天孫降臨からです。
ここで注目すべきはやはり「中臣(なかとみ)氏」です。後に藤原氏となる一族です。
忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった豪族です。
古事記は独特の文法により書かれ、また秘匿されたために当時人に読まれることは
無いとは言え、藤原氏は特別です。
と言うのは中臣鎌足(のち藤原鎌足)は645年の大化の改新で活躍しました。記紀
編纂が始まっていた頃の人物と考えられます。古事記は712年に成立しますが、そ
の時期に近づくほど藤原氏は権勢を誇ります。
また中臣鎌足は編纂者から見れば厄介な人物で、中国の史書に精通し、「六韜(りく
とう)」を暗記していました。時代や記紀への魏志倭人伝などの話しの取り入れ方か
ら見て、基本構想づくりに多大な影響を及ぼしたはずです。
こうした人物ですから編纂者(太安万侶の前任者)も無視することも出来ず、
「ここの物語は決まったか?」
「中国史書ではこう書かれているのだから、こうした方がいいんじゃないか」等々、
厄介な話しに悩まされたでしょう。
天孫降臨という事実上なかった話において、中臣氏がニニギ命と共にやって来たと
されるのはもっともなことだと思います。

少々横道に外れますが、「先代旧事本紀」という記紀より1、2世紀後に世に出た物
部氏・尾張氏の家記のような書があります。物部系の人物により書かれたようです。
この書ではまずニギハヤヒ命が高天原より大和の地に降り立ちます。その後、記紀
と同じくニニギノ命が降臨します。
何故こうした書を作ったのか。
今回の検討で明らかです。
物部氏の本宗家は蘇我氏との仏教を巡る対立で滅んだが、各地には物部氏の末裔が
たために、物部一族は藤原氏に勝るとも劣らない名門なのだというアピールです。
日本書紀ではニギハヤヒ命は神武東征前に大和入りをしています。
古事記では神武天皇が大和を平定し、
「伊那佐の山々で戦ったので腹が減った。鵜飼いの者よ、助けに来てくれ」
と歌い終わった後に、ニギハヤヒはのこのこと出てきて
「神の御子が天下ったと聞きましたので、後を追いかけて参りました」
ととんでもなく間抜けな登場の仕方をします。
紀によれば天孫降臨は180万年前です
こうした記述になったのは、編纂者の「物部氏嫌い」のためでしょう。
日本の神々の姿を浮遊する神から、人格を持ち神社に坐す神に変えるためには、
仏教の力が必要です。その仏教導入や日本古来の神々の姿を変えることに祭祀者と
して物部氏は猛反対をした。
そうした事情により古事記では編纂者の人間的な一面が表れたと考えます。
中臣鎌足は物部氏と共に仏教に反対しました。
もし古事記成立の近くまで鎌足が生きていれば、こうした記述は許さなかったのでは
ないでしょうか。

 

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万葉集「国見の歌」の謎

奈良盆地の地形に触れたついでに、従来謎とされてきた万葉集にある舒明天皇の歌
を考えてみます。
「国見」の歌
大和には群山あれど とりよろふ天の香具山登り立ち 国見をすれば国原は煙立ち
立つ 海原はかまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島大和の国は

「大和にはたくさんの山々があるが、特に頼もしい天の香具山に登り立って国見を
すると、広い平野にはかまどの煙があちこちから立ち上がっている、広い水面には
かもめが盛んに飛び立っている。本当によい国だね(あきづ島)この大和の国は」
(小学館「日本古典文学全集萬葉集」巻一より)

この歌の謎とは、江戸初期の学者契沖もが言っているのですが「和州には海なきを、
かくよませ給ふは、彼山より難波の方などの見ゆるにや」
つまり標高150メートル前後の天香具山から、大阪湾は見えないよね。おかしい歌だ
よね。
この疑問に対し、後の国学者たちは、天香具山の麓にある埴安(はにやす)の池を海
といったのだと考えました。この説は広く受け入れられ、以来、この「海」は埴安
の池というのが通説となりました。
しかしやはり納得できない人が多く、同じ質問が繰り返されたようです。
伊藤博氏の『萬葉集釋注(訳注)』でも、この句について次のように注記しています。
天香具山の周辺には、埴安、磐余など、多くの池があった。「海原」はそれを海と
みなしたものであろう。「かまめ」は「かもめ」の古形で、その池のあたりを飛ぶ
白い水鳥をかもめと見なしたのか。

別の見方をしてみましょう。
以前紹介しました奈良盆地の大和湖の推定地図です。



大和湖は土地の隆起によって消えていきました。現在の国土地理院による現在の標
高データからの推定ですので、歌が作られた当時(7世紀前半)のカタチとは違う
かも知れませんが、この大和湖が見えていたのではないか。

そこで景色というのは一体どのくらい先まで見えるのだろうか。
具体的には大和湖が天香久山から見えるのだろうかを計算してみました。



懐かしい直角三角形の三平方の定理です。
地球の半径はおおよそ6,400km、6,400,000m。
cは地球の半径に天香久山の標高152mを足したもの。
bは地球の半径に大和湖の想定水面高さ47mを足したものです。
a = √ (c^2 - b^2)
その結果 aを計算すると36.6kmとなりました。

天香久山から唐古鍵までは8km。36kmあれば枚方市辺りまで行きますので、
もちろん天気に拠りますが、大和川が流れだす王寺町辺りに大和湖が少しでも残
っていれば充分見えたはずです。
舒明天皇の歌にある海は大和湖であった可能性が高いと思われます。

さて、36kmで枚方となれば、もしかして当時は内陸まで入っていた河内湖(大
阪湾)が見えたのではないか。
先ほどの方法で152mの山から海抜0mまでではどこまで見えるのかを計算する
と43kmほどまで見えることが分かりました。
十分視程内にありそうです。
ところが生駒・金剛山地が邪魔をします。標高が低い所を探して信貴山と二上山の
間に目を付けたのですが、それでも90mあります。



計算上ですが50m以下であれば、天香久山から河内湖が見えるはずなのですが、
奈良盆地の西の山々は残念ながら視界を遮るようです。
河内湖まで見通すのは無理だったようです。

机上の論理ですので、近いうちに実際に行って見て確かめてみたいと思います。

 

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神武東征伝承から見る「神社」のもう一つの役割

神武天皇の実在性について有った、無かったと今も研究者により議論が続いていま
すが、先に述べたように魏志倭人伝の記述は、大和国の成長過程のある一時期を表
したものです。
女王卑弥呼共立の70,80年前にその国を男子の王が建国したとあり、邪馬台国
の場所が纏向とほぼ確認できた今、この王が後世に神武天皇と呼ばれるようになっ
た人物であることは歴史の流れから見て間違いないしょう。
ただし一地方国であったわけですから、大王という複数の国の王の中の王という天
皇と言う名称は本来相応しくないものです。
建国の祖として敬意を払いそう呼んだものと思われます。

一冊の本を紹介します。産経新聞取材班著「神武天皇はたしかに存在した」産経新
聞出版社刊です。 [産経新聞取材班, 2016]
要旨は神武東征経路の要所のほぼ全てには東征の伝承が残っている。その多くは説
話であったり、祭りであったりの形で、現代も息づいている。語り継がれるに足る
見聞があったればこそ、これだけ「完全」な形で伝承となっているのである。
こうして東征があったのだから神武天皇は存在していたはずである、というもので
す。
ここで取り上げるのは神武天皇ではなく、その存在の証しとしている「神武東征」
の有無ですが、この本にあるように東征経路の一部ではなく要所、要所に伝承や祭
りがあるから東征はあったとする見方には賛意を示す方もいるのではないでしょう
か。
私も神武天皇と呼ばれるようになった人物の存在を認め、東征もあっただろうと考
えていますので言下に否定するものではありません。
ただある危惧をどうしても拭い去ることが出来ません。
記紀編纂者の掌の上で転がされているのではないかという疑念です。

伝承は作られることもあるというのは、「天孫降臨の地は高千穂町か霧島連峰か」
でお話ししたように、高千穂町に高天原があたかもあったかのように伝承だけでは
なく神社までが作られている例で知る事ができます。

また伝わっている話しが明らかに変わっているものもあります。
例として前掲書より引用します。
<狭野尊(さののみこと)、宮崎ヘ向はセラル時、土民ノ奉献セシ馬ニ召サセ給ヒシ
地ナリ・・・・・・>
宮崎自動車道高原ICに近い宮崎県高原町の「馬登(まのぼり)」。
この地にはカムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)が長じて東に向かった際、
住民たちに見送られた伝承が残っている。その時、イワレビコは馬上だった。
今も残る石碑の文言は、この経緯を語るものである。

この伝承には明らかな間違いがあります。神武東征当時、1世紀末から2世紀初め
頃、倭国に馬はいません。
これは魏志倭人伝にも馬はいないと書かれ、遺跡からも確認されていることです。
猫、馬はいません。
倭国が朝鮮半島へ出兵した4世紀末頃から馬はやって来ました。
本書でもこの点は指摘しており、南九州は放牧に適した地であり馬が多く、また馬
は権威の象徴であったために後世に神武天皇と結び付けたものだろうとしています。
何もない所に話しをでっち上げたというものではありませんが、伝承は変わっていく
ものであるということ、そのまま信頼していいものではないということです。

記紀は天皇を天、神に繋がる存在であることを示すために書かれました。
神社は書に接する機会がない、字が読めない庶民にも神を知り、丁寧に祀る重要性
を知らしめるために建立されました。
そのため記紀における重要な場所には古くから神社があります。

私の危惧はここにあります。
伝承があまりに見事に残っていること。しかも瀬戸内海を通るコース上にです。
広型銅矛の分布、鉄器・銅鏡の分布から豊後水道は北九州勢力に押さえられて
いました。中国大陸との直接取引も見られる日向の外洋航海能力は高いもので
したので、北九州という大勢力が閉鎖している豊後水道は避け、太平洋を通っ
た可能性が極めて高いのです。

如何せん小さな軍勢の日向軍。吉備国と呼応して吉備勢が敵勢を誘き寄せている間
に、豊後水道を通り抜ける手も考えられますが、当時は風待ちもあり携帯電話もな
いのですから、リスクが高すぎます。
また伝承だけでなく、神武天皇に関係する地、若しくはその近くには延喜式に載る
神社もしっかりと存在します。

あまりに見事に残る数々の伝承と神社の存在。これは何かからくりがあるのではな
いか。
そこで思い至ったのは、神社にはもう一つの目的、役割があったのではないかとい
うこと。
神に人格を与え、その居場所を示すためだけではなく、その地に関する記紀の話し
を伝え広め、残していくという役目。
当時は記紀に関係する神社はそれが正式な役割だったのではないか。
「これだけ立派な社を、それも国が、何もなかった所に建てるわけはない」と訪れ
た人々は思ったことでしょう。
現在の私たちも記紀編纂者に操られている、彼らの掌の上で転がされているのでは
ないかと懸念を持つのです。
記紀という書は真実を語っている場合もありながら、神功皇后のように明らかに編
纂者が作り上げた登場人物や物語もあります。
史実を見極めるためには考古学という物証と歴史の流れをも併せて検証していくべ
きです。

神武東征の有無については、否定する材料もありませんが、肯定する確固たる証拠
もありません。状況証拠から「東征」はあった可能性があると言えるだけです。
これからも引き続き検討を進めていくことにします。

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大和建国の時代を特定する

物部氏の祖を追いかける際に大和建国に繋がった瀬戸内海、尾張・東海の2大勢力
の対立は1世紀末辺りから2世紀初めとしました。
大型銅鐸の製作年代、第2期高地性集落が造られた年代からの推定でした。
実はもう一つ、この年代は魏志倭人伝の記述とも一致します。

邪馬台国と大和建国に関する固定観念
大和国が出来る前の古い時代に、場所は特定出来ないが「邪馬台国」という女王国
が存在した。その後、「大和国」が建国され、徐々に中央集権制が成立し今の日本
に繋がった。
何となくこうした考えを持っている方が多いのではないでしょうか。
邪馬台国の場所の特定に長い期間を要したために、また記紀でも天照大神が治める
高天原がまずあり、天孫降臨により国が造られ始めたとなっているため、こうした
イメージが出来上がり、現在も多くの歴史に関する本はこの考え方の上に書かれて
います。
この邪馬台国から繋がりは不明だが、その後大和国ができ成長してきたというこの
考え方は、歴史を見るときのフレームワーク、思考の枠組みとも言えるほど強固な
ものとなっています。
史実を見極めていくためには、この枠組みを壊す必要があります。

考古学(物証)に重きを置けば、いま邪馬台国は奈良県桜井市の纏向遺跡とほぼ
特定され、2世紀終わりから4世紀初めに掛けて繁栄をしていたことが分かってい
ます。
それを前提に魏氏倭人を読んでみると大和国建国のあり方、その時代が分かります。
因みに「邪馬台国」を「やまたいこく」と読むのは今の私たちの読み方です。古代
中国語においては「やまと」と発音したという説が今は主流になっています。 

魏志倭人伝が示すもの
魏志倭人伝は長い間、多くの人に読まれてきたにも関わらず、大和建国に触れてい
るという説は聞いたことがないかも知れません。
それは下の一文がその原因なのです。
【問題の個所】
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王

・訳
その国、もともと男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、
相攻伐すること歴年、及(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。
[石原道博, 1951]を参考に作成

邪馬台国までの道程を記し、みんな刺青をしているなど倭人の習俗を説明した後に
この文章が来ます。
もし魏志倭人伝の本を持っていればこの個所を見てください。
多くの本が「其國」を「その国」ではなく「倭国」もしくは「倭の国」としていま
す。
訳で「その国」としていても解説で「倭国のこと」としています。
それが間違いなのです。

「その国」を倭国とした場合、複数の国をまとめる国、地域を意味します。伊都国、
奴国、投馬国などを含む西日本、最低でも倭国と呼ぶに相応しい複数の国々が存在
する地域を統治する国(体制)が倭国大乱の70,80年前に既に存在していなければ
なりません。当時最も繁栄を誇った北九州が最も可能性が高い地域となるでしょう。
事実は違います。
女王が共立された邪馬台国という連合体制の中心地・時代は、前方後円墳を造り始
めた畿内であり、その場所は大和であること、2世紀末葉から始まることが明らか
になりました。
「その国」は邪馬台国を指し、その読み通りに大和のことです。
では魏志倭人伝をどう解釈すべきか。
大和国が2世紀初めに男子の王によって建国された。70,80年経った後、何年
にも及ぶ大乱が起こり、それを経て各国が共立する女王が誕生した。

つまり最初は一地方国の大和が生まれ、2世紀末に近いころ西日本を統治する連合
体制となった。首都は女王が都する邪馬台国(大和国)であった。
奈良盆地に建国された大和を遠い外国である中国から望遠鏡で覗いた一時的な姿が、
邪馬台国として記されたのです。

物証と記録が示すものは、邪馬台国と大和というのは別々の国ではなく「ヤマト」
という一国の成長過程なのです。
繰り返しになりますが、従来の固定観念を打ち破って新しい視点を持つことが史実
に迫るためには必須なことです。

 

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・物部氏を追いかける(8) 神武天皇・ニギハヤヒ命会談の実現

清水風遺跡の絵画土器より作成した羽飾りの戦士(祭りの場)

奈良盆地の状勢図

神武天皇とニギハヤヒと記紀で呼ばれる物部氏の祖との出会いはどのようなもので
あったか。
なぜ物部氏は天孫族として、天に繋がる一族として書かれたのか。

一般的にどうでしょうか、神武天皇率いる軍勢は宇陀から奈良盆地に入りこの地を
席巻したというイメージを持っているのではないでしょうか。
私もそう思っていました。
ところが戦った場所の地名が幾つか出てきますが、多くの戦いは図の赤い「✖」印
の場所、全て盆地の南東部で三輪山にも届かない南側です。
記紀共に神武天皇は南東部の山地にいたとします。

また盆地内部にも高地性集落がありました。 [石野博信, 2015]
盆地西側の生駒山地から始まる高地性集落群は、その布陣から高槻市のものと同じ
く戦いの初期に作られたものと見えます。
防衛ラインの構築でしょう。
盆地南東、特に東側に散在するものは、戦いの終了頃、若しくは終わった後に尾張
勢の再びの西進を懸念しての監視用のものではないかと考えます。
大型銅鐸という祭器を生産していた大きな在住一族がこの地には存在したこと。
後に大和政権において祭祀を担当した物部氏との類似性。
尾張以東には達しなかった銅鏡の分布、倭国大乱の物的証拠とされた高地性集落の
年代が最近の研究で半世紀ほど早まった事実。*
これらの事実から強く示唆される2勢力の対立。
魏志倭人伝に女王が都する国は女王共立の70、80年前に男子の王によって建国
されたと記され、またこの書は供述には違いありませんが、他の書に比べれば記録
に近いとされること。
勝手な改ざんは許されないであろう日向から来たとされる皇家の出自伝承。

奈良盆地で何が起こったのか、推測してみます。

*: これは話してなかったかも知れません。これらの集落こそが倭国大乱時に活躍し
 たと思われていましたが、時代が違うようです。歴史的な意義、位置づけに歴史
 研究者は迷っているように見えます。これはまた別途お話しします。

神武天皇一行は日向を出て、河内湖にやって来た。
しかしそこは激戦の地に近く、瀬戸内海勢の多くの船で埋め尽くされており、小軍
である日向軍の出る幕はなかった。
生駒から金剛山地まで瀬戸内海勢は高地性集落を作り、蟻のはい出る隙間もなかっ
た。
盆地南東部に進んだのは、戦況から見ての独自の判断か、瀬戸内海勢から名張経由
の尾張軍の支援部隊の遮断を依頼されたか、どちらにしても結果から見ても合理的
な正しい行動であった。
皇軍が紀の川を遡り、最後は宇陀に着き様子を窺ってみると在住一族には戦意は見
られなかった。彼らには戦う理由がなく、むしろ最も関係が深かった瀬戸内海諸国
との関係が悪化すること、途切れることを恐れていた。
淀川沿いでは激しい戦いが続く中、大和湖を支配し唐古鍵で大型銅鐸を作っていた
在住一足の中でもとりわけ有力な一族と接触した。さすがに大型銅鐸を生産してい
る唐古鍵のことは日向でも知られていた。
その一族は瀬戸内海勢側に味方することに同意した。他の一族も説得すると言う。
奈良盆地在住の一族が寝返ったこと、瀬戸内海勢側についたことを知った尾張勢は
崩れ始めた。一部徹底抗戦を唱える者もあったが、兵站が思うに任せない地。
また九州北部の勢力が再び瀬戸内海ルートを閉じたことは、河内湖進出の意義を既
に失っており、撤退の声が出ていた尾張勢にとって、この戦いを終わらせる決断は
難しいものではなかった。

しかし何故日向勢が接触するまで、瀬戸内海勢と盆地在住一族の交渉がなかったの
か。
やはり盆地東南部は一種の空白状態だった。西側では尾張軍、意に添わぬままの在
住勢力が混在する軍と瀬戸内海勢が戦闘状態であり、首長同士の話し合いに至る状
態ではなかった。
また尾張型とも言える三遠式大型銅鐸製作の工房を造った物部氏に尾張国は深い恩
義を感じていたはずであり、「物部氏に手を下すべからず」との国王の意思を受け
て、本拠地近くの盆地東南部は尾張軍が最も手薄となる空白地域となっていた。
また日向勢はある期間留まって居たために、後世、神武天皇、ニギハヤヒ命の会談
と記される歴史を変える出会いが実現した。
こうして戦局を一気に決めることに繋がった戦果を挙げた日向勢は、この地域、奈
良盆地の一族たちを統治することを認められた。

ここで述べたように物部氏が大和建国に活躍したとなれば、天孫族として扱われ、
直接天に繋がる名門一族として、王族が住まう隣の石上で繁栄を誇ったとしても不
思議ではありません。
記紀において皇軍は他国への支援のためにやって来た小規模な助っ人だったとは書
けない。
独立した軍として、瀬戸内海を悠々と航海し、宇陀に出るには瀬戸内海勢の力が確
実に及んでいた紀の川から入れば充分なものを、熊野迂回という何の意味もない行
動までさせ、奈良盆地では大活躍をしたとして武勇を示しました。

どうでしょう、あまりに妄想が過ぎるでしょうか。
史実を知りたいと思った時、考古学だけではその意味、意義つまり史実に繋がるシ
ナリオが見えない時(例えば高地性集落)に、必要なのは文献史の力や想像力であ
ると考えています。
これまでお話ししてきた事が、事実に近いものなのか単なる妄想なのかを証明する
ためには、高地性集落のより正確な年代の決定。言うまでもないかも知れませんけ
ど、考古学で相対年代(古い、新しい等)は比較的決めやすいのですが、絶対年代
(西暦年でいつ頃)の決定は難しい。ただもう少し年代を絞ることが出来れば当時
の倭国2大勢力の対立状況が詳しく見えてくるはずです。
また大型銅鐸の各式(1,2,3,4,5式)のより正確な製作年代と三遠式とい
う尾張型の生産地の特定も望まれます。
そして何より日向と瀬戸内海諸国との繋がりを示す物的証拠が、遅れている九州南
部の考古学的調査の進展により出てきた時、記紀(供述)と考古学(物証)が同じ
方向を指し示すことになります。

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