ト骨からみる卑弥呼の出身地

ト骨占いは弥生時代の早い時期から日本全国で行われていました。祭祀として全国区のものでした。

そうした中、弥生後期に青谷上寺地で骨の両面を使える新しいタイプのト骨が生まれました。(千葉大学 國分氏はケズリD・焼灼Ⅲa類と分類)
そしてこのタイプがヤマトに渡り、前方後円墳とともに全国へと広がります。古墳だけではなく卜占も斉一化の動きがみられるのです。
外洋航海が盛んでト占需要も大きく最先端の地であった山陰が、卑弥呼の出身地として浮上します。

「倭王 ヤマトの源流」(つむぎ書房)では、
https://www.amazon.co.jp/dp/4910205705/ref=cm_sw_r_cp_apa_glt_i_X0TEE3Z80QTHQF94CMWE

当時の政治情勢、各国が求める大王共立の条件などからこの謎を紐解いています。

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王統と男系での継承の始まり

古墳に埋葬された人骨などを調べている清家章氏によると、河内王朝以前は女性の埋葬者も多かったそうです。

女性の首長が多く存在しました。

ところがその後、古市・百舌鳥古墳群が築かれる河内王朝の時代となると

ほとんどが男性へと変わっていきます。4世紀後半のことです。

この現象は「なぜ男系への継承となっていったのか」を検討する際に大きな鍵を握ります。

「倭王 ヤマトの源流」ではまず事実を知ったうえで記紀が男系に拘った理由を検証していきます。

 

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邪馬台国とヤマト国

邪馬台は当時の古代中国語では「ヤマト」と発音するという説が有力です。
魏への使者が国の名は「ヤマト」と答えたための当て字なのでしょう。

倭国初の大王墓は奈良県桜井市の箸墓古墳です。第2代大王の台予の墓は3kmほど離れた西殿塚古墳です。
その後大王墓は磐余、柳本、佐紀へと転々と移ります。そして河内王朝が登場します。
このように古墳、大王墓を追いかけると邪馬台国、大和国は同じものであることが分かります。

詳細は「倭王 ヤマトの源流」つむぎ書房でご覧ください

 

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「倭王 ヤマトの源流」つむぎ書房より出版しました

2021年7月12日に出版しました。

「倭王 ヤマトの源流」斉藤登著 つむぎ出版

皇位を継ぐ者は父方の血筋で辿れば神武天皇に行き着く男系でかつ男子のみとされています。そのため後継候補者がたいへん少なくなっており、こうした男系天皇という伝統を守るべきなのか、いまこそ女系天皇を認めるべき時なのか。大きな関心を呼びメディアでもしばしば議論が取り上げられています。
ただ幾つかの意見・主張を聞いていると疑問がでてきます。
●事実はどうであったのか?
そもそも神武天皇は実在したのか?それは分からないというのが定説のはずだが、血筋の話しになると途端に間違いなく「存在した」として話しが進むのはご都合主義ではないか?
そこで多数ある古墳、その中でも大王墓に着目し、倭国の王統はいつから始まるのか、ヤマト建国者存在の有無、それは誰だったのかを明らかにします。
●根本的な疑問「なぜ男系?」
これは難問です。しかしこの答えがなければこの議論は終わらないはずです。
万世一系とは、古事記・日本書紀の編纂時代の大きな政治課題である「律令制」の成功のために必要な概念です。律令制には唯一特別な存在、絶対的な存在とされる人物がなくてはなりません。その為に神に繋がる正当な人物として「天皇」が描かれました。また苛烈な皇位継承争いもありました。
こうした天皇像に反映されるその時代の要請を紐解くことで謎を究明していきます。

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雄略天皇の実像から考える皇統譜



大王墓の変遷
 
第21代雄略天皇にはどのようなイメージがあるでしょうか。
記紀では国見の途中に宮殿に似た家を見つけると不遜であるとその場で焼き討ちに
する。安康天皇を殺害した人物が眉輪王であることを知るなり、同母兄である兄二
人と眉輪王を殺すなど武断的な専制君主として描かれています。
また「倭の五王」中の倭王「武」に比定され、「宋書」倭人伝には武からの上表文
として「東のかた毛人を征すること五十五国、西のかた衆夷を服すること六十六国」
と大いに活躍した天皇として紹介されます。
文献資料からは雄略朝はヤマト王権の勢力を拡大した歴史的な画期であったと捉え
られることが多いようです。

実態はどうだったのでしょうか。

考古学の進展著しい今、大王墓の変遷を辿りその実態に迫ろうと思います。
図は [白石太一郎, 2013]の「畿内における大型古墳の編年」から大王墓のみを抽
出したものです。(矢印は筆者が追加)

簡単にその変遷を説明します。
箸墓古墳の被葬者は卑弥呼。西殿塚は台与とみられます。
魏志によればこの二人の間に男王が一人いましたが、各国は納得せずその支配地域
は大和のみで終わっています。つまり大王ではありません。単なる王です。
西殿塚の前後に築造されたいくつかの古墳のいずれかに葬られているのでしょう。
西殿塚の後、外山茶臼山、メスリ山と奈良盆地南東部いわゆる磐余(いわれ)の地に
動き、行燈山、渋谷向山と巨大化していきます。
その後、やや唐突に盆地北部の曾布(そふ)にある佐紀古墳群へと移動します。
この佐紀への移動はそれまで盤石であった初期ヤマト政権の内部で混乱が生じ始め、
その結果として曾布の勢力が王権を掌握したのだろうと白石氏は指摘します。

古墳はその被葬者の本貫地に営まれるものです。
大王墓が移動したという事は大和南部勢力から北部へと王権が移ったと考えざるを
得ません。
王権に血の繋がりが有るのか無いのかは残念ながら分かりませんが、有ったとする
可能性はかなり低いでしょう。

次に文献資料研究からも指摘される河内王朝へと移ります。
この時期は記紀においては兄弟間の皇位継承争いが始まり、血塗られた時代として
描かれる時です。
ただ沖津山、上石津ミサンザイ、誉田御廟山と古市・百舌鳥古墳群と頻繁に場所が
移りますが、二つの勢力の争いではなく王権を輪番制ともいうような順番で担当し
たと考えるのが妥当でしょう。
大和から河内に移った時のような天皇名(和風諡号)の変化や逸話で示唆される
「歴史の裂け目」は見当たらなく、移動の高い頻度からそう推測します。


雄略天皇の実態
 
やっとこの章の本題に入ります。
雄略天皇陵は白髪山古墳と考えられます。
今城塚は今の天皇家に繋がる継体天皇の陵であることがほぼ確実視されています。
雄略天皇陵は高鷲丸山古墳と治定されていますが、大王墓ではないのですからこれ
は成り立ちません。
大王墓とは隔絶した規模をもつこと、その時代の画期であることが求められます。
宋書にある倭の五王「武」は雄略天皇であることにはほぼ異論が出ていません。
そうすると西暦478年、479年、502年と中国へ朝貢した武の陵は白髪山古墳しかあ
り得ません。

ここで雄略天皇の実態が見えてきます。

つまり河内王朝の最後の王であったということです。
当時、近江を中心とした淀川水系において大きな勢力となっていた一族が王権を掌
握したのでしょう。

記紀においては雄略の後、清寧、顕宗、仁賢と続き武烈天皇で皇統は絶えたとし、
応神天皇の5世孫である継体天皇を見つけ出し擁立したとあります。
これは記紀が最も強く訴えなければいけない「万世一系」を作り上げるためです。
大和から河内へ系譜を繋げるために仲哀天王、神功皇后を登場させた手法と同じも
のです。
ただここの雄略、継体間の裂け目は記紀編纂が始まる7世紀に近いために、清寧から
武烈と4人の天皇を登場させ、念入りに覆い隠そうとした意図が伺えます。

継体天皇から文献資料の精度が上がるのは、この時代以後は隠すものが少なくなっ
たためとも言えます。

次回は雄略天皇の焦り、倭の五王について触れてみます。

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「宗像・沖ノ島」世界遺産に登録勧告 8件中4件は除外  :日本経済新聞

沖ノ島の祭祀は三輪山祭祀と共に4世紀後半から形式が整い大規模化し始めます。
一地域ではなく国家的祭祀になったとみられます。
つまり倭国が中央集権体制、大王(天皇)制を整え外に向かい始めた時代とも言えま
す。
歴史資料がなく「空白の4世紀」とも呼ばれる時代の物証がここにあります。

 文化庁は5日、世界文化遺産への登録を目指す古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関が登録を求める勧告をしたと発表した。構成資産の

情報源: 「宗像・沖ノ島」世界遺産に登録勧告 8件中4件は除外  :日本経済新聞

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写真展を開催中です。

善光寺とこの寺を呼び寄せた水内の地を紹介しています。

善光寺 ー祈りー
善光寺は都ではなくこうした山に囲まれた地で、なぜこれほどの大寺として現れた
のでしょうか?
そこに思いを馳せていただければと思います。
私は貧乏人の自宅の一隅から始まったこの寺の庶民性。
水子観音など人々から上がってきたであろう祈りを受け止め、支えてきた仏教とい
う枠にとらわれない柔軟性。
また京都の大寺では決して見ないであろう「むじな地蔵」などを平気で祀り、24時
間365日人々が祈ることができる開放性といった面を感じました。

水内の自然
善光寺は今の場所に建立される前は飯田にありました。
なぜここに移って来たのか?
水内は信仰(自然信仰です)に篤い地であり、長野盆地は麻の取引で潤っており、信
仰と経済の基盤があったためと言われています。
その自然の中に神を見る信仰がこの地で育まれてきた訳など、その一端を感じて頂け
ればと思います。

「善光寺 -祈りー」

会期:2017年5月2日(火)-7日(日) 12:00-19:00(最終日 16時)
会場:Roonee247 fine arts / Room1
  東京都中央区日本橋小伝馬町17-9 佐藤ビルディング4F
 カラー、小全紙20枚の予定です
Room2で「水内の自然」を紹介します。
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邪馬台国東遷説を考える

未だに「邪馬台国東遷説」は根強い人気があります。
東遷説とは簡単に言えば、
「北部九州にあった邪馬台国は卑弥呼の時代、若しくは台与に代わる時に今の大和
に遷ってきた」というものです。
この説は考古学からほぼ完全に否定されています。
土器の動きはむしろ逆であり、大和から北部九州へと多くの人々が移り住んだこと
を示しています。
「邪馬台国からヤマト王権へ」 奈良大ブックレット 白石 太一郎他 に詳しく載
っていますので参考にしてください。
では、なぜ未だにこの東遷説に人気があるのでしょうか。
一つは邪馬台国がどこにあるか分からなかった時代が長く続いたことにあります。
江戸時代から続く議論です。
考古学者の議論を聞いていて畿内説にほぼ決まったと言えるのは、2009年に奈良県
桜井市の巻向駅のすぐ近くで卑弥呼の王宮ではないかとされる、日本最大の大型建
物群の跡が発見されたころからです。
まだまだその歴史は新しいものです。
多くの人たちの心の中に「邪馬台国の場所は謎、若しくは北部九州にあった」とす
る図式が染みついていると言っていいでしょう。
またもう一つの固定観念、先入観があります。
神武天皇の登場は卑弥呼の後、つまり先に邪馬台国がありその後大和王権が成立し
たいうものです。
これは日本人の常識とも言えるほどのものです。
事実は違います。
邪馬台(ヤマトと発音)国が大和であったことを認識すれば、所謂「魏志倭人伝」
にある邪馬台国とは大和国のある時代を中国から望遠鏡で覗いて描いたものである
ことが理解できます。
ここは重要なポイントですので、折に触れ説明するつもりです。
もう一つ、見逃せないのは文献史研究です。
資料研究は大きな力となりますが、その力を発揮するのは歴史資料がほとんどない
「空白の4世紀」を過ぎた後、5世紀以後の歴史研究においてでしょう。
3世紀辺りの文献史研究のあり方をみれば、4~500年以上経って書かれた文献
を基に細かい推理を重ね、地名という変化するものを頼りに仮説を組み上げていく
説がほとんどです。
その結果として邪馬台国の東遷説をはじめ、物部氏の祖も北部九州から東遷してき
たという説も浮上しています。
私は古代史(4世紀以前)研究においては、考古学(物証)を第一に捉え、次に文
献史(供述)を取り上げるべきと考えています。
考古学から否定されている一つの国が東遷してきたという幻想は、そろそろ捨て去
る時です。
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鬼道と天を祀る祭祀

魏志倭人伝にある「鬼道に事(つか)えよく衆を惑わす」とはどういう意味でしょう
か。
近年、東アジアにおける倭国の位置づけといった研究の進展により、明らかになっ
てきたことがありますので紹介します。
また後世、記紀編纂時に現れた天を祀る「天皇祭祀」との違いを比較すると分かり
易いので、これらを[古代史シンポジウム「発見・検証・日本の古代」編集委員会,
 2016/7/25]より磯前順一氏の指摘からまとめてみます。

「鬼道」とは何か。
後漢書で「鬼道」を「鬼人の道」と言い換えてる。「鬼」は死んだ人の魂、「神」
はその通りに「神」、「道」とは祀る方法であり、「鬼道」とは鬼人の祭祀、死者
の霊魂や、海や山の神々を祀るものである。
片や天の祭祀、天の神の代表は天照大神であり、天皇はその末裔で天に通じる存在
である。つまり現人神として天を祀り、また祀られる存在である。よって万世一系
の概念が重要性を帯びてくる。

これらの視点、指摘は極めて注目すべきことです。
卑弥呼はなぜ記紀にそのまま登場しないのか。
一時、熱烈な仏教崇拝に走り君臣統合の論理としても利用したにも関わらず、なぜ
そのまま仏教国とならなかったのか。
従来の疑問を解く鍵となります。

まず卑弥呼を隠し通した理由ですが、記紀編纂者たちは「鬼道」を理解していたの
でしょう。
卑弥呼は現人神ではなく、神の声を聞く巫女的な存在であり、2~3世紀において
倭国に天の祭祀は存在していなかった。
これは天に繋がる万世一系の概念から外れるものですので、律令制を目指す記紀編
纂時代においては排除せざるを得なかったと見られます。
律令制を国として実施したのは日本だけです。
なぜ日本は出来たのか。
仏教、大乗仏教は「一切衆生」を唱えます。つまり全ての人は平等であり、全ての
人は救われる訳です。
ところが律令制に必要な思想は「公地公民」でした。全ての土地、民は天皇に属す
る。天皇だけは特別な存在であるということ。
仏教とは相反するものを必要としました。

この考え方を日本に根付かせるため、仏教を全て採用するのではなく記紀を編纂し
「万世一系」、「現人神」の考え方を表したのです。 

ほぼ同じ時代の歌人 柿本人麻呂の歌にもこの思想はよく表れています。

大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬(いお)りせるかも
 

 

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神道は宗教なのか?

 東北大震災から1年後の陸前高田市(2012年3月11日)

毎年3月11日を迎えると思うことがあります。
自然信仰を基に先祖崇拝を合わせて成り立ったものが神道であると言われます。
神道は宗教なのでしょうか?
司馬遼太郎が「街道をゆく」で言うように「かなり特異なものである」ことは間違
いないでしょう。
宗教の三大要素である
1.教義・教え
2.教典(教えが書いてあるもの)
3.布教
が全てありません。
神道は知識といった頭で理解するものではなく、自然の美しさを見て感動し、災
害を前に畏れ、収穫に感謝するという直感的なもの、心の奥底にあるものの表れ
だと思うのです。
宗教とは一般的に言われるように「人間の力を超えた存在を中心とする観念、その観念体系に
もとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団」。
信仰はその観念により動かされる心的な動き、また行動を指すもの。
そうした視点から見れば、神道は宗教であり、信仰であると考えます。
目に見える教義はありませんが、「お天道様が見ているから」「お米は作ってくれ
た人に感謝して、一粒も残さずに」「人様に迷惑を掛けないように」など民族とし
て伝えてきたものがあります。

2011年3月11日を境にそれまでよく言われてきた「日本人は信仰心がない」
「日本は無宗教の国である」といった言葉は聞かれなくなりました。
日本が伝えてきたこの心を大切にしていきたいと思います。

 

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